野村胡堂 銭形平次捕物控(巻十五) 目 次  鉄砲の音  厩の火  宿場の女  敵討設計書  地中の富  鉄砲の音     一 「八、遊びに行こうか」  平次もたまにはこんなこともありました。お小遣いはふんだんにあり、差し迫っての仕事はなし、隅田川を渡って、堀切あたりの菖蒲《しょうぶ》でも眺め、行々子《よしきり》の声でも聴いて、田園趣味にでも浸ろうかと思ったのでした。  相棒には八五郎があり、帰りに一杯きこし召せば、それで文句を言う八五郎ではありません。 「そいつはありがたいが、親分、大変なことが始まったんで」  八五郎はまだ朝飯前と見えて、寝ぼけた顔を二階から差しのぞかせました。 「お前の大変が来ないので、江戸は淋しくて叶《かな》わないよ、どうしたんだ八」  平次は狭い庭に立ったまま、この相棒の顔を見上げました。寝ぼけてはおりますが、単衣《ひとえ》の襟《えり》をかき合せて、品を作って髪などを撫《な》で付けております。 「客がありましたよ、呼び起こされたばかりで、ヘッ」 「その客というのは新造《しんぞ》だろう、お前を万年床から、呼び出すのは叔母さんや家主じゃあるめえ」 「いやに眼が届くぜ、親分」 「昼近くなるまで寝ていたお前が、仕立ておろしの一張羅《いっちょうら》を着ているじゃないか」 「平右衛門町のお染《そめ》って娘《こ》に呼ばれたんですよ、大変はその娘《こ》が持って来たんで、こいつは寝ちゃいられないでしょう」  八五郎は居続けの貧乏|業平《なりひら》のような恰好《かっこう》で二階から降りてきました。井戸端へひとっ走り、手軽に顔を洗って、平次を縁側へ呼び入れます。 「ところでその大変はどうしたんだ、堀切行きは、それでお流れか」 「菖蒲なんか見たって、仕様がありませんよ、それよりお染っ娘が持って来た大変というのは」 「待ってくれ、そのお染っ娘というのは誰だい、お染久松のお染じゃあるまいね」 「そんな気障《きざ》なんじゃありません、平右衛門町の米屋の亭主が鉄砲に撃《う》たれて死んだということを、娘の染ちゃんが知らせて来ましたよ」 「なんだと、御府内の鉄砲騒ぎはただごとじゃない、行ってみよう八」  平次もいきり立ちました。御府内では鉄砲を一挺《いっちょう》持っているのもやかましく、国主大名でさえもたった一挺の鉄砲を手に入れるんでも、幕府の許可を得なければならなかったのです。  こうして一杯にありつけるはずの堀切行きはフイになって、二人は平右衛門町に急ぎました。八五郎にとっては、朝飯よりも差し迫っての仕事の方が面白そうな夏の朝です。そこには八五郎を呼び出したお染っ娘とやらがいるのです。 「道々、お前の話を聞こう、平右衛門町の米屋といえば、場所柄聞こえた家だが——」  平次はこんな短い時間でも利用しようとするのでした。お蔵前の近くに店を張って、手広く商売をしている米屋の竹田屋は、内々は大川から運ぶ御蔵米も扱い、思いのほか収入もあり、諸藩の御用もたして、とんだ恵まれた男でもありました。したがって当時は江戸でも騒がれた何大通かの一人で、放埓《ほうらつ》に身を持ちくずしましたが、自分でもそれを知り抜いて、十年前女房に死なれてからは再び後添《のちぞい》を迎えようともせず、妾狂いや遊び三昧《ざんまい》に身を持ちくずして、我世《わがよ》の春を有頂天《うちょうてん》になって暮らしている男だったのです。 「それが昨夜《ゆうべ》——といっても夜中過ぎに、暑いからと言って開けて寝ていると、天井の空窓から鉄砲で撃《う》たれ、夜のあけるのも待たずに死んでしまいました。お染っ娘が飛んで来たのはそんなわけです、町内の外科も呼んだが、死んでしまったものは埒《らち》があきません」     二  平次は八五郎をつれて、平右衛門町の竹田屋に着いたのは、まだ朝のうちでした。大戸は閉めたまま、その日は商売を休んで、てんやわんやの騒ぎです。大川に沿って、平右衛門町|河岸《がし》を控えて広い家、主人の半兵衛は、その家の奥の六畳に今でも寝かされたままです。 「親分、よくいらっしゃいました、御覧下さい」  店へ出てきたのは半兵衛の娘で、八五郎を迎えに行ったというお染《そめ》でした。昨夜のままの、浅ましい不断着ですが、下《しも》っ脹《ぷく》れで大きい眼、八五郎が言ったようなそれは思いの外の美しい娘でした。 「お前はお染さんと言うんだね」 「……」  お染めは黙って奥の一と間を開けました。店から納戸《なんど》を抜けた六畳で、そこにある手箱もそのまま、頭の上の窓は開いたままで、そこから物干竿《ものほしざお》の太いのが、まともに覗《のぞ》くのが気になります。  傷は首筋を一ヶ所、弱い火薬らしく、直刃《すぐは》の短刀は少し狙いが外《そ》れて首筋をかすめたまま、畳の上に突っ立ってあったのでしょう。  もはや平次はかれこれと調べるまでもありません。得物はその畳の上へ血だらけになって突っ立っていたのです。 「暁方まで、命はありました。外科の先生を呼んで、及ぶ限りの手当てをしましたが——」  お染はおろおろと泣くのです。 「さいしょに見つけたのは誰だい」  銭形平次は型どおりの調べを始めました。閉りの厳重そうなこの家へ、うっかり入ることも成らず、天窓から鉄砲を撃《う》ちかけたのは容易ならぬ事です。 「大きな音がしました。私も妹のお糸も気がつきましたが、庭先に寝ている下男の権六が父親のうめき声に気づいて、雨戸を外から叩きました、驚いて引き入れると、この有様で」  お染めはその時の驚きを再現して、唇をふるわせます。鼻の下の短い智恵走った顔で、江戸娘によくある魅力です。 「そのお糸さんと、下男の権六とやらを呼んでくれないか、あとは?」 「番頭の勇造と、助十は通いでございます」  そう言いながら、お染が退くと、入れ替るようにお糸が縁側へ出て来ました。十八になるというお染よりは少し若く、若いにしては引締った娘です。 「お前は?」 「糸と申します」 「年は?」 「十六になったばかりで」 「お染とは似ちゃいないようだ」 「私は十年前に姉さんの相手にもらわれました。両親は西国巡礼に行ったきり行方不明になっております」  美人形のお染には似も付かぬ浅黒い顔や、長い眼、低い身の丈《た》けなどをみて、血筋の争われなさを平次も感じております。 「お前はこの家をどう思うのだ、床の間の手箱にも金はあるが、取った様子もないようだ、御主人の半兵衛さんを誰か怨《うら》む者でもないのか」 「そんなことはありません。慈悲深い御主人でしたから」 「それで、お前は仕合せだったのか」 「それはもう」  お糸はわだかまりのない顔を挙げました。主人半兵衛の庇護《ひご》のもとに隠れて、この少女には、なんの不平もない様子です。 「お前の寝室は?」 「この部屋の上になっております。姉さんの部屋の前を通らないと、ここへは来られません」 「昨夜、鉄砲の音を聞いたのか」 「夢のように聞いたような気がします」  でもこの若さと健康さではどうすることも出来ません。  続いて呼び出されたのは、下男の権六でした。六十近い老爺《おやじ》で、年のせいか少しはもうろくしております。凄《すさ》まじい虫食い頭で、蜻蛉《とんぼ》のような髷《まげ》が乗っかっているだけ、物の言いようもひどくしどろもどろです。 「お前は権六といったね」 「ヘエ」 「生国《しょうごく》はどこだ」 「川越でございます」 「どうしてここへ住み込むことになったんだ」 「十年も前でございます、ご主人様が甲州《こうしゅう》へ出た時、お供をして参りますと、とんだところが気に入って、それを縁に御奉公いたしました、結構な主人でございました」 「お前の給金は」 「年に三両でございます」 「大分ためたことだろうな」 「奉公人のためるのは多寡《たか》が知れております」 「おまえの部屋はどこだ」 「裏口の方にあります、用心のために、物置に休んでおります」 「それでは鉄砲の音が聞えたろう」 「少し遠くなりますが、おどろいて飛び出しました」  平次の調べもそれで終わりました。番頭の勇造や、助十は二人とも通いで世帯持《しょたいもち》で、この厳重な塀を越えて、竹田屋の店に忍び込むだけでも容易のことではありません。そこから裏口へ、平次は念入りに調べて廻りましたが、高窓から竹筒に詰《つ》めた鉄砲を撃《ぶ》ち込んだという外にはなんの新しい発見もありません。  そして主人は有り余る身上《しんしょう》を置いて、虫のように死んでいるのです。     三 「親分、いろいろの事がわかりましたよ」  このとき八五郎は、近所を一と廻りして帰って来ました。家の中の調べは平次に任せて、八五郎は外廻りの噂《うわさ》を調べて来たのです。 「そいつは有難い、何がわかったんだ」 「向柳原からここまでは町内のようなものですから、猫の子が風邪を引いてることまでわかりましたよ」 「そいつは有難いが、油断をしちゃいけないよ、江戸の町家は、隣にどんな人が住んでいるかわからないものだ」  近所の鉄棒引《かなぼうび》きを口説《くど》き落とすのは、八五郎のお家の芸ですが、平次はその気楽さに止《とど》めを刺しました。 「そいつは大丈夫ですよ、平右衛門町の竹田屋といえば、近ごろは江戸の大通ですよ、金がふんだんにあって、男がよくて、女房がいないと来れば、世間じゃ放って置きません」 「で、遊びの様子は?」 「吉原へ行って、小判をばら撒《ま》きますよ、十年も男やもめで暮らして、遊び放題だからたまりません、商売人やお師匠さん、下女小女の果てから、おん婆《ば》、もりっ子の果てまで手当たり次第にかき集めるからたまったものじゃありません」 「……」 「そんな大通は、思わぬ敵も作りますよ」 「身投げした女だけで何人、遠島へ行った者は数知れず、——大変な野郎があるものですね、|おいらん《ヽヽヽヽ》買いのぬか味噌汁と言うが、こいつはけちな事は日本一で、滅多な事では金のかかる商売人なんかには手も出しません」 「それからどうした」 「鉄砲で撃《う》ち殺されちゃおしまいだ、——近所の衆は手を拍って喜んでいますよ、二人の娘のうち姉娘のお染は間違いもなく主人の子だが、妹娘のお糸はどこの子とも知れないのを、子供のうちから育てて、近頃は下女代わりに使っています、——給料なしの下女なんかは竹田屋の考えそうな新手《しんて》でしょう」 「お糸は怨んでいるのか」 「子飼《こが》いの下女になると、怨む事なんか忘れていますよ、給金なんかはもらうものとも思っていない、——ところが、お糸という子は、妙に木の実が好きで、樒《しきみ》の実やらあおい|ぐみ《ヽヽ》やら、秋になれば鳥兜《とりかぶと》の花やら、大変なものを集めておもちゃにするそうですよ、玉芹《たまぜり》とか毒茸《どくきのこ》とか、季節によっては、ずいぶん恐《こわ》いものがあります」 「そいつは変わった道楽だが、今は夏になったばかりだ、江戸には人を殺すような毒があるわけはない」  鳥兜は秋の草花、玉芹はめったになし、樒はどれほどの毒か、川原うつぎや、斑猫《はんみょう》や、有毒植物といわれる、三十六の毒草も、もろもろの毒薬は単に伝説に過ぎないものが多く、あまり当てにはなりませんが、一生奉公のお糸が、好んでそんなものを扱ったとすると、なんの下心もなかったとは言い切れません。 「でもね親分、あのお糸という娘《こ》は、たった十六ですが、とんだ綺麗な娘になりますよ」  八五郎は娘の鑑定だけは本阿弥《ほんあみ》です。 「それがどうしたのだ」 「主人の半兵衛の食物中へ、どんな細工をするかわかったものじゃありません」 「半兵衛は鉄砲で殺されてるんだぜ」 「ヘエ」 「あの鉄砲を高窓から撃ち込むのは、女の子の仕事じゃない、大きい踏台《ふみだい》の上に乗っかって、そんな危い芸当が出来るものか、その上踏台はどこにもないよ」  平次はもうそこまで見定めているのです。踏台のない高窓から、鉄砲を撃ち込むことは思いもよりません。高窓から主人の半兵衛を撃った竹筒には、紛《まぎ》れもない火薬の跡があり、匕首《あいくち》はそこから飛び出したことは紛れもない事実なのです。床の上に仰向けになっている半兵衛は、閉め切ったまま死んでおり、粗造《あらづく》りな焔硝《えんしょう》で射出された直刃の匕首は、間違いもなく、その首をかすっているではありませんか。 「そこでどうすればいいでしょう親分」  八五郎はせっかく聴き込んで来てもあまり役に立ちません。 「屋根からでも入らなければ、この家には入って来られないよ、塀は高いし、閉まりになんの変わりもない、だがまだ人間は二人もいるはずだ、娘のお染と、下男の権六を念入りに調べてくれ、それから梯子《はしご》を掛けて、屋根から庇《ひさし》を見るんだ、証拠を残すような事はしないだろうが、ほかにしらべようはない、その上竹筒に残る焔硝はおそろしく粗末《そまつ》なもので、炭屑《すみくず》だらけだ、硫黄くらいは入っていたかも知れない、そのことも勘定に入れて考えていた方がいいかも知れない」 「ヘエ、——親分はどこを探すんで」 「二階から屋根の上は、俺が見るとしよう」  二階から庇の重要性を考えて、平次が裏からもういちど梯子を持ち出しました。     四  その間に平次は、もういちど家の者を調べてみる気になりました。二人の娘には、十分疑いがあるのですが、高窓にぶら下げた竹筒の鉄砲で、人を撃ち殺せるはずもなく、この上は竹田屋に泊まっていないという、二人の奉公人を調べるほかはありません。勇造というのは通いの番頭で四十五六、女房持ちで近所に住んでおり、その晩は子供の病気で早引きをしており、なんの疑いもありません。腰の低い小作り者、家に泊まったことは多勢の証人もあります  もう一人は助十という米つき男で、庭も掃けば得意まわりもする、年に四両の給金は安いとは言えません。主人の家に住むのは妙に遠慮があるらしく、路地を距《へだ》てて同じ平右衛門町に住んでおります。下町の大店《おおだな》には稀《ま》れにこんな奉公人もあったらしく、小博打《こばくち》好きの遊び好きらしく、二十五六のなかなかの好い男です。 「夕方早く戻りましたまま吉原を二た廻りして隅から隅まで冷やかすのが性分で、それから帰って寝たのは夜半《よなか》でしたでしょう」 「それで変わったことはなかったのか」 「編笠茶屋のあたりは掘り返していました、泥の中へ足を踏込《ふみこ》んでひどい目に逢いましたが、——それでも若い者は真っ直ぐに家《うち》へ帰っちゃ寝付かれません」  道楽者らしい事を言って、助十は気軽に顎《あご》をしゃくるのです。 「下男の権六は外へ出るような事はないのかい」 「あれは年寄りですから滅多に外へ出ませんよ、それに川越近くの生まれで、江戸はよく知ってるというから、あっしはあの人の世話で、この家《うち》へ入ったんです」  助十は滑《なめ》らかな調子に続ける。 「あの男は足が悪いようじゃないか」 「生まれつきの悪い足で、ろくに仕事も出来ませんが、旦那様の御慈悲で、年に三両のお小遣いで使っているんです、もったいない話で——」  助十は言いたいだけの事を言ってのけるのです。 「お前の国はどこだい」 「信州ですよ、大飯くいの本場で」  そうは言うもののなかなか役には立ちそうです。平次はもういちど権六に逢ってみましたが、足の悪いのは生まれつきで、年を取った上に、見るからよぼよぼで高いところの仕事などは出来るわけもなく、これで調べはハタと行き詰ってしまいました。 「親分」  そのときまた八五郎が外から帰って来たのです。 「どうだ八、変わったことでもあったのか」 「大変が胆《きも》をつぶして逃げ出したような事ですよ」  八五郎は少し興奮しております。 「というと?」 「姉娘のお染には男がありましたよ、年頃は争われないものですね。主人の半兵衛は知らないが、町内の衆は皆んな知っております。夜な夜な妹のお糸に戸を開けさせて、男に逢いに行くんですって、昨夜の逢曳《あいび》きの真っ最中に、父親の半兵衛が殺されたんですって」 「本当か、それは?」 「嘘は吐《つ》きません」  事が女出入りとなると、八五郎は恐ろしく正直です。 「お染を呼んでくれ」 「ヘエ」  八五郎は気おくれのするお染の袖を取って来ました。十八というにしては、少しませておりますが、眼鼻立ちに江戸娘らしい媚《こび》を含んで、なよなよとして平次の前に崩折《くずお》れ姿が言いようもなく優しさがあります。 「お嬢さん、父親の半兵衛さんは死んだんですよ、隠さずにはっきり言って下さい。昨夜《ゆうべ》どこへ行ったんですか」 「……」  お染は土壇場《どたんば》に据《す》えられて深々と首をうな垂れました。 「こいつを言わないと、とんだことになりますよ、親殺しは磔刑柱《はりつけばしら》を背負わなきゃなりません、外から曲者《くせもの》が入った様子がなく、一と晩半兵衛さんは一人でいたわけですね」 「……」  お染の沈黙はますます深まるばかりです。 「お嬢さん、黙ってちゃ済みませんよ」 「……」 「銭形の親分、それは私が申し上げましょう」  不意に、妹のお糸が出て来ました。たった十六ですが、姉を磔刑柱に上げるには忍びなかったでしょう。 「あ、お糸さん、それは有難い。恥も外聞もない、皆んな話しておくれ、今では、父親の半兵衛さんも死んでいるし、聞かせて悪い人もない」 「銭形の親分、姉さんが言いにくいのも無理はありません、旦那様は戌刻《いつつ》(八時)になると休んで仕舞います。すると、亥刻《よつ》(十時)近くになって、姉さんがそっと脱け出します、あき地へ行くと、すぐ川岸《かし》で、そこには小舟もあります、その舟の中で逢曳《あいび》きをして、子刻《ここのつ》(十二時)には元の家《うち》へ帰ることになっております、私はそっと戸を開けて上げます。それから先は私はなんにも存じません」  お糸は姉の思惑を憚《はばか》りながら、ずけずけと言い切るのです。 「相手は誰だ、それだけでいい、この紙へ書いてくれ、火鉢の中の灰でも構わない」  平次は娘の口をひらかせるのももどかしく、黙って火箸を押しやってそっぽを向きました。  遠くの方から八五郎が、眼を光らせたことは、言うまでもありません。     五 「親分驚きましたね」  竹田屋を出たのは夕方近く、八五郎は不平らしくこんなことを言うのです。 「なんだい八」 「半兵衛殺しの下手人《げしゅにん》はわからないんですか、親分」 「企んだ仕事だ、容易にはわからないのが本当だろうよ、昨夜《ゆうべ》お染に逢った男の名前だけでも知りたいが」 「そいつはわけもありません、近所の衆は皆んな知ってますよ」 「十八や十九の娘を責めるんでもあるまいと、俺はとんだ遠慮をしたよ、ついでにあたってみようか」 「ちょっと待って下さい、色事となると、御近所の衆は鵜《う》の眼|鷹《たか》の眼ですよ」  八五郎は二三軒歩いて来ましたが、土地っ児だけに顔が売れていて、早くも要領を得たものか、まもなく戻って参りました。 「どうした、八、相手の名は?」 「釣り舟で逢曳きしているのは、賛五郎《さんごろう》という良い男ですよ、さんざん苦労をしているが、金持の一人娘と浮名を立てられちゃ、職人の恥だと言って秘し隠しに隠しているそうで」 「さっそくその男にあってみよう、お染と逢ったのは戌刻《いつつ》から亥刻《よつ》の間、そのころ父親の半兵衛は殺されているんだ」 「行ってみましょう」  賛五郎というのは見る影もない職人でした。半兵衛が生きていたら金輪際《こんりんざい》承知をしなかったと思うような長屋の子で、銭形平次に行かれて胆《きも》をつぶすばかりです。 「賛五郎、昨夜はどこへ行ったんだ、戌刻《いつつ》から——」 「賭場《とば》へもぐり込みました、佐竹の賭場で、さんざんの眼に逢いました、ヘエ」 「嘘を吐《つ》いちゃ為にならないよ、人が一人殺されているんだ、近所の人が皆んなお前の顔を見ているが、念入りに佐竹の賭場を調べるまでもあるまい」 「恐れ入ります、大川の釣舟でくらしました、相手は、それだけは勘弁して下さい」 「よく言ってくれたよ、ところで、誰にも逢わなかったのか」  手文庫に変りはなし、行跡《ぎょうせき》には変なことだらけですが、この男に半兵衛殺しの疑いのないことだけはあまりに明かです。半兵衛の一人娘との色事さえ秘し隠しに隠している男です。 「そう言えば、竹田屋の門の傍で、誰かに逢ったような気がします」 「男か、女か、足は悪くなかったのか」 「知ってるような顔ですが、思い出しません、丈夫な野郎です、足なんか悪くはありません」 「有難うよ、逢曳きでもしようという若い男は、気の立っているものだ、とんだことに気がついて助かったよ」  平次は未練気《みれんげ》もなく賛五郎に別れて浅草に向いました。 「どこへ行くんです、親分」 「俺は江戸の町をみたいよ、吉原というところは久しく行ったこともないが」  日本堤から編笠茶屋の前へ、陽のあるうちに足を延《の》した平次です。 「驚いたな、ここは暗くならないと用事のない所ですが」 「土手の道哲も出ちゃいないよ、おやおや編笠茶屋の前は道普請でぬかるみかと思ったら、とんだ良い道じゃないか、ちょいと近所で訊いてくれ」 「ヘエ」  八五郎は飛んで行きました。二軒当るまでもなく、この辺は悪い道ですが、幸い近頃は天気続きで、三日前に道の普請は終ったことと、今では冷やかしの客から四つ手|駕籠《かご》まで、足を汚さずに歩けるということです。 「すると、助十の言ったことは、満更《まんざら》嘘じゃなかったが、今となっては本当でもなかった、まだ暮までには間があるようだ、一とっ走りして行ってみよう」  そこから平右衛門町までは遠い路ではありません。 「親分、助十の家へ来ましたよ」 「まだ暮れ六つには早い、しばらく見張ってくれ」 「ヘエ」 「助十が来たら、捕まえてもかまわないよ」  平次は助十の男世帯へ飛び込んだことは言うまでもありません。 「助十は独り者だと言ったね」 「ヘエ、女房はないはずで」 「線香があるぜ、蛆《うじ》の沸《わ》きそうな独り者が、線香などをいじって、抹香臭《まっこうくさ》くなっているだろうか」 「信心深いことで」 「馬鹿な野郎だ」 「押入の中へ足袋が抛《ほう》り込んであるぜ、跣足《はだし》で屋根を渡るのは気味が悪かったろう」 「ヘエ」 「この足袋に泥なんか付いちゃいないよ、吉原へ行くのに足袋を穿《は》くような心掛けじゃあるまい、それはいいとして、この雲斎底《うんざいぞこ》は大変な汚れようだよ、お天気は好いし、屋根か庇《ひさし》を踏《ふ》んだ泥だ、見るがいい、泥の中に木が付いているぜ、トントン葺《ぶき》の上を渡るとこんな具合になるよ」 「……」 「おや、おや、この木の上に炭を砕いた跡があるぜ、薬研《やげん》の代りに、ここで焔硝《えんしょう》を拵えたんだ」  平次は夕あかりの下で、最後の証拠集めに苦心をしていると外から入って来た助十は、待構えた八五郎に、無図《むず》とつかまった事は言うまでもありません。 「御用だぞ、野郎神妙にせい」  争いは簡単にかた付きました。丈夫そうで良い男で八五郎などに敗けそうもない米つき男の助十が両手を後ろにして、素直に縄に就いてしまったのです。ちょうどその時、外から駈けて来た妹娘のお糸があわただしく戸を叩きました。 「大変です、権六が死んだんです、菜切り包丁で腹を切って。早く来て下さい」     六  それは大変なことでした。下手人を縛ったばかりの平次は、お糸を先に帰して、夕やみに紛れるように、同じ平右衛門町の竹田屋へ行ってみたことは言うまでもありません。  主人の半兵衛が死んだあとで、遠い親類から近くの他人まで、夥《おびただ》しい見舞い客の中で、物置の下男部屋で死んでいる、権六の死骸が発見されたのです。  てんやわんやの騒ぎの中に、主人は俺が殺したのだと書置きらしい、拙《まず》い字で、消し炭の走り書きが一つ、争う余地もありません。  平次はそこへ飛び込むと、立ち騒ぐ人数を追っ払うのが精いっぱいでした。一と足おくれた八五郎は、縄付きの助十を引っ立てて、そこへやって来ました。あたりは薄暗くなって、部屋の中には平次の外に娘のお染とお糸が残っているだけです。 「お父さん、早まったよ、俺はもう縛られているんだ」  助十は八五郎に押えられたまま、身を投げかけるように権六の死骸に折り重なるのです。 「待て、待てこれはどうしたと言うのだ」  八五郎はあわてて引き起しました。 「こうなっちゃ皆んな言ってしまいます、銭形の親分、訊《き》いて下さい」 「……」  平次は黙って助十に対しました。わけのわからぬ節々《ふしぶし》、この事件の蔭に潜《ひそ》むもろもろの疑問が、助十の口から説き明かされそうです。多勢の野次馬も、事件の真剣味に胆《きも》を潰したか、物置の外に飛び出して、近づく者は一人もありません。 「銭形の親分、よく訊いて下さい、この人は、私の父親なんです」 「権六は川越と言ったが、お前は信州者じゃないか」  平次はわずかに言葉を挟みました。 「私の許嫁《いいなずけ》の父親なんです、父親と言っても差し支えはないでしょう、——私は江戸へ来て権六さんの隣に住み、その娘のお八重と親しくなりました、若い二人が、親の許しを受けて末は夫婦と約束したのも無理でしょうか」  場所は三味線堀、二人の仲は蜜のごとくあまかったに違いありませんが、まもなくお八重は米屋の竹田屋に奉公し、無理無体に主人の妾になったことも、想像に困難ではありません。まもなくお八重は主人の半兵衛に捨てられて、大川に身を投げて死んだことも、当時の道徳観念では考えられないことはありません。富める商人が大通気取りの道楽の揚句《あげく》、奉公人に手を付けることも当たり前であり、それを弊履《へいり》のごとく捨てるのも珍しい事ではありません。それに後生気をそそられたものか、半兵衛は父親の権六を一生奉公のつもりで家に入れ、ともかくも世間並の世話をしましたが、その権六も娘のお八重の許嫁だった助十にめぐり逢って気が変わりました。 「私は信州の山奥に育ちました。ほんの少しばかり焔硝《えんしょう》を手に入れ、それに炭の粉と硫黄を交ぜて、弱い火薬を拵えることは、大した難しいことじゃありません、私は娘に死なれて苦労をしている権六を説きふせました、権六に塀さえ開けてもらえばよかったのです。足の悪い権六を働かせるまでもありません」 「……」 「昨夜《ゆうべ》権六は塀の戸を開けてくれました、私はそこから忍《しの》び込んで、梯子をかけて庇の上から、昨日《きのう》のうちに用意をした竹筒の焔硝の口火へ火を付けました。一本の線香があればそれでよかったんです、竹筒には焔硝が詰めてあり、匕首が一本突込んでありました。高窓の真下には、色気違いの半兵衛が寝ております、私は口火に線香を差し込んだだけで、外へ飛び出せばよかったんです、跡は権六さんが閉めてくれます」  助十はこう言い切って、涙に濡れながら縛られたままの肩で、もはや死に切った権六の身体をゆすぶるのです。 「平次親分、私が下手人に間違いもありません、権六父さんを許して、お葬いをしてやって下さい、——お願い」  平次は黙って聞いておりましたが、その時静かに立ち上がりました。 「八、下手人が二人あるはずはない、助十の縄を解いて、信州へ帰してやれ」 「……」  八五郎はきょとんとしております。 「御府内で鉄砲さわぎはうるさいぞ、昨夜《ゆうべ》半兵衛が死んだとき鳴ったのは、生竹を焼いたせいだろう、——下手人は権六さ——死んだものを召し捕りようはあるまい、娘の敵《かたき》を討ったんだ、黙って帰るがいい」  平次はいつものように、この時も下手人を縛ろうとしませんでした。もう四方《あたり》は暗くなりかけております。明神下の自宅には、女房のお静が、晩飯の冷たくなるのを気にしいしい待ちこがれていることでしょう。  厩の火     一  八五郎が病気になって、大久保に住む遠縁の親類、馬喰《ばくろう》の弥兵衛のところへ出養生《でようじょう》に出かけました。六月の末の、世の中がすっかり夏模様になりきった頃のことです。 「八五郎さんの病気はどうでしょう。馴《な》れない田舎住居で、ずいぶん不自由をしていらっしゃるでしょうね」  お天気が滅法良いにつけ、お静は出養生に行っている、八五郎の退屈さを思いやるのです。 「心配することはないよ。あんな男は、どこへ行っても、三日と経《た》たないうちに、友達の五人や十人は拵《こさ》えるよ」  平次は一向にこだわる様子もありません。八五郎などという男は、文化人の閑居《かんきょ》に付きまとう倦怠《アンニュイ》などとは、縁がありそうもなかったのです。 「でも、たまには、お見舞いをして上げてはどう? 可愛そうですよ。——俺は江戸という町に湧《わ》いた虫さ、大木戸から先へ出ると、浮世は味気《あじけ》なくなる——という人ですもの」 「八五郎にとっては、浮世でなくて浮かれ世さ。でも、もう一と月近くになるから、覗《のぞ》いてやろう。お土産《みやげ》といっても面倒臭いから、一升ブラ提げるとしよう」 「あれ、まあ、八さんは脚気《かっけ》ですよ。お酒などまさか」 「そうそう忘れていたよ。しばらくは酒の粕《かす》もいけなかったんだ。塩煎餅《しおせんべい》か、金平糖《こんぺいとう》でも持って行くか、——なんだってあんな馬みてえな達者な野郎が、脚気なんか踏み出しゃあがったんだ——もっとも、馬にも内羅《ないら》という病気があるんだってね」 「ま」  ポンポン言いながらも、平次は急に八五郎の様子が見たくなったらしく、明神様の前で土産物などを調えさせ、かなりの遠い道を、高田馬場近くまで行くことになりました。  菖蒲《しょうぶ》や藤|躑躅《つつじ》には少し遅いが、江戸は申し分のない季節でした。歩くと少し汗ばんで、立ち停まると、どこからともなく揚雲雀《あげひばり》の歌が聴えます。この辺は武家屋敷が多く、ところどころに田圃《たんぼ》があって、その間をお稲荷さまの赤い鳥居が彩《いろ》どり、武蔵野らしい榎や松の大樹が、生垣と藪《やぶ》に点綴《てんてつ》されております。  高田馬場の手前、教えられたとおりの田圃道を少し行くと、馬喰《ばくろう》の弥兵衛の家はすぐわかりました。 「オーイ、オーイ、親分」  遠くから見つけた八五郎が、畑の道を、ヨチヨチと飛んでくるのです。 「脚気が駈けちゃ悪かろう。ここまで来たんだから、もう間違いようはないよ。仁義《じんぎ》が済むまで、待って居な」  平次は俵《たわら》のようにむくんだ八五郎の足を考えて、少し気をもみました。 「ヘッ、ヘッ、お控えなせえ——と来ましたね。親分の顔を遠くから見つけると、ツイ飛び出してしまいましたよ——何年目で逢ったでしょう、たいして変わりませんね」 「馬鹿だなア、お前が養生に出たのは、たった一ヶ月前だよ、——浦島太郎の気でいやがる」 「そんなものですかねえ。一ヶ月も居ると、猫とも馬とも顔馴染《かおなじみ》になったし、菫《すみれ》も蒲公英《たんぽぽ》も一向珍しくなくなって、ときどきは江戸を思い出しますよ」 「そいつは気の毒だな。まあお医者の言うことを聴いて、秋までは我慢することだ。あまり退屈をするようなら、なんか、楽しみを拵えるのがいい。細工物《さいくもの》とか手習いとか」  平次は百姓屋の縁側に、八五郎と押し並びました。 「あっしは不器用で、賭《か》け事もできないくらいだから、細工物も手習いもモノになりませんよ。宿の親方に教えてもらって阿保陀羅経《あほだらきょう》でも稽古《けいこ》しようかと思いますがね」 「たすからねえ男だな」 「もっとも、どこへ行っても、好い娘のついて廻るのが、あっしの一徳で。この村にも好い娘《こ》がいますよ」 「厄介な野郎だな」 「女は江戸でなきゃ——と思い込んだのは大間違いで。白粉《おしろい》も紅も知らない、生み立ての玉子のような娘——産《う》ぶ毛《げ》を剃《そ》ることも知らない肌に銀粉《ぎんぷん》をまぶしたような新造を初めて見ましたよ」 「相変らず若い女の鑑定《めきき》だけはうるさい」 「そう言いますがね、親分、この村にはまったく良い新造がいますよ。論より証拠、ちょいと、その藪蔭を見て下さい。子分が二人いるでしょう」 「なんだ、男の児と女の児が飯事《ままごと》遊びをやっているじゃないか。八つかな、九つかな」 「男の子は馬喰弥兵衛の孫の文吉、女の児はこの家の弟——源三郎の娘でお駒《こま》。たった九つになったばかりだが、たいした|きりょう《ヽヽヽヽ》でしょう。田舎にはとんだ綺麗《きれい》な児がいるものですね」  平次は庭先の藪蔭を覗きました。青草の上に筵《むしろ》を敷いて二人の子供が、飯事遊びに夢中になっているのです。筵の上には、幾つかの可愛らしい道具が並んでおり、蕗《ふき》の葉や貝殻《かいがら》の上には、木の実や葉っぱを刻《きざ》んだ、幾通りもの御馳走が盛られております。  赤のは青木の実、青いのは虎杖《いたどり》、藪甘草《やぶかんぞう》、それに遅い躑躅《つつじ》が交ったり、うつぼ草が交ったり、一々玩具の包丁《ほうちょう》で刻んで、花粉などを振りかけてあります。  おとこの児は七つか、八つ、身扮《みなり》もチグハグで、丈夫そうな、田舎の子ですが、女の子はそれより一つ二つ年上らしく、少し陽には焦《や》けておりますが、これは身扮《みなり》もよく、御所人形のような美しい顔立ちです。  賢《かしこ》そうな大きい眼も、血色の良い頬も、両端でキリリとはね上がった可愛らしい唇も、まことに非凡の魅力《みりょく》というほかはありません。 「飯事では結構な女房振りだが——」  平次もツイほお笑ましくなりました。 「良い児でしょう。江戸中を捜しても、あれほどの娘はありませんよ。あの児の母親は、たいしたきりょうだったそうで、今でも大久保じゅうの話の種になっていますよ、——父親の源三郎はこの家の主人、榎《えのき》の長者富右衛門の弟で、——実は甥《おい》だそうですが、弟分になっています」 「するとお前は、榎の長者の家に厄介になっているのか」  平次も驚きました。榎の長者の富右衛門というのは、大久保きっての金持ちで、貧乏人の八五郎と関係があるはずもありません。 「馬喰の弥兵衛は、富右衛門の厩番《うまやばん》で、ここは榎の長者の構えの内ですよ。馬喰といったって、馬を買ったり売ったりしたのは昔のことで、今じゃ、飼葉《かいば》の世話をするだけ。倅《せがれ》は江戸へ稼《かせ》ぎに出て、弥兵衛は孫の文吉と二人暮らし、少し馬糞臭《まぐそくさ》いのを我慢すれば、家はこのとおり広いから、一年ぐらい居候をしていても、驚きゃしません」  八五郎はひどく鷹揚《おうよう》にきめ込むのです。     二 「あの娘の母親——お八重さんという人は一年前に亡くなりました。葬《ほうむ》るのも焼くのも惜しかったという、昔々大昔の天竺《てんじく》のお妃《きさき》のように綺麗だったという話しで、亭主の源三郎は、しばらく気抜けがしていた——と、これは馬喰《ばくろう》の弥兵衛の話しで」  八五郎の話はつづくのです。縁側に薄縁《うすべり》を敷いて、真夏の陽を浴びながら、手作りらしい番茶が入って、平次の持参した塩煎餅が開かれます。 「大久保じゅうの女は皆んな綺麗だと言ったようだが、九つの娘とその死んだ母親だけじゃ、たった二人じゃないか」  藪の蔭の飯事《ままごと》はまだ続きます。平次はその和やかな風景を眺めながら、八五郎の大袈裟《おおげさ》な話に文句を入れるのです。 「ところが大違い、あの娘の母親の妹——叔母さんというのが、たいしたものですよ。江戸の吉原、入山形《いりやまがた》に二つ星の太夫にもあれほどの女はあるまいと——」 「相変らず大袈裟な話だ」 「姉のお八重のことは話に残っているだけだが、妹のお鈴だって透き通るようですよ。今では榎の長者の番頭の和助の女房になっているが、年のころは十九か二十歳《はたち》、ビードロで拵えた姉様人形のようで、——いや、親分にも見せたいくらい——」 「馬鹿にしちゃいけない、江戸からわざわざお百姓の女房を拝みにくるものか。俺は、お前の病気見舞いに来たのだよ」 「相済みません。あっしの脚気はもう治りましたよ。——百姓の女房と言うけれど、野良仕事をするわけではなし、ビードロの人形は泥臭《どろくさ》くなんかありゃしません。まア、一度見てやって下さいよ」  八五郎が骨を折って紹介するまでもありませんでした。その時ちょうど、母屋《おもや》の榎の長者のお勝手から来た一人の若い女が、 「ま、駒ちゃん、そんなものを食べたりして、毒になったら、どうするつもり」  庭先へ廻って、藪蔭のお飯事の後ろから、お駒と文吉に注意するのです。 「だって、食べる真似《まね》だけなら、構わないでしょう」  大きな蛤貝《はまぐりがい》のお椀《わん》を手にした小娘のお駒は顔をあげました。真昼の陽に照らされた健康そうな顔を、藪|ぐみ《ヽヽ》の青葉がくっきりと隈取《くまど》って、その清らかな美しさは、絵巻物から抜け出したような可愛らしさです。 「まア、この児は」  そう言った若い女は、もういちど平次を驚かしました。この物腰、身扮《みなり》、さしたる特色もない若女房ですが、肌《はだ》の色が、ギヤマンの姉様人形のように、透いて見える感じでした。わけても生《は》え際《ぎわ》の美しさ、匂うような眉、——そんなはずはないのですが、五臓六腑を喪《うしな》ったような、世にもめでたい夢幻的な美しさです。  肌の持っている銀色の輝きが、宋代の抽胎《ちゅうたい》という尊い磁器のように、全身が乳色に透いて見えるように感じさせるのでしょう。 「食べなきゃいいわねえ、文吉さん」  お駒は男の児に同意を求めると、文吉は二つ三つ首を動かしましたが、お駒よりは年も幼く醜《みにく》い愚鈍《ぐどん》そうな児です。 「でも、木の実や草の根には恐いのがありますよ」 「木の実や草の根が恐いなんて可笑《おか》しいや。そんなものを食べて悪きゃ、お馬は皆んな死ぬよ」  文吉は思いのほか高慢なことを言います。 「毒|ぐみ《ヽヽ》や毒ウツギや兜花《かぶとばな》は大変な毒ですよ。玉芹《たまぜり》の根だって、間違って食べると、馬でも死ぬというくらいだから——」  若い女房はそう言いかけて、フト顔を挙げると、縁側から凝《じ》っと見ている、銭形平次と顔が合ってハッと立竦《たちすく》みました。いつも見ている、あごの長い剽軽者《ひょうきんもの》の八五郎と違って、江戸の御用聞の平次はこの辺では滅多に見掛けない小意気な人柄です。  次の瞬間、若い女はヒラリと身を翻《かわ》しました。そして藪を廻って母屋の方へ、足早に消え込んでしまったのです。 「どうです、親分。あの女ですよ、——源三郎の女房の妹で、お鈴というのは。番頭の和助と祝言をしたばかりで、まだ眉も落とさず鉄漿《かね》も付けない初々しいところが良いでしょう」  八五郎は自分のことのように自慢らしく言うのです。 「なるほど、俺は女の鑑定《めきき》は不得手だが、あれは少し変わっているな、——唐人《とうじん》の落し胤《だね》で、西国にはあんな女は時々生まれるということだが——」  唐人というのは、今の白人で徳川時代の初期に混血したのが、八分の一とか十六分の一の混血児になり、とんでもないところへ、世代を隔《へだ》てて、血統を飛躍して、間歇遺伝《かんけついでん》をするのでしょう。     三  平次は明神下へ帰って来てからも、妙にその記憶は鮮やかでした。  八五郎の容体は順調、無駄話に花を咲かせて、よき半日の遊山《ゆさん》になったには違いありませんが、榎の長者の豪勢な暮らし振りと、お駒という童女の人間離れのした可愛らしさ、それに、その叔母に当るお鈴という若女房の美しさには、まったく胆《きも》をつぶしたのです。  が、平次を驚かしたのは、そんなことではなく、大久保の森の一角を占める榎の長者の生活には、平次の敏感な神経には、苛立《いらだ》たしい、陰惨なものを感じさせるのです。深い森、大きい屋根、毒々しい赤い花——そして、その中に生活している、絵に描いたような美しい女——すべてが尋常でなく、すべてが、ちぐはぐなことを感じさせるのです。  非凡の富と、美しい女、賢こ過ぎるような少女、あの空気の中で、一番平凡な存在は、のんびりした八五郎の顔だけです。なにか間違いがなきゃいいが——そういった暗示めいたものに悩まされていると、 「銭形の親分さん、大久保から参りました。八五郎親分が大変です。早くお出で下さらないと——」  いきなり入口の格子を叩いて、そういう男の声がするのです。  平次は驚きました。飛び出して格子を開けると、路地を突っ走る人の姿。 「ちょいと、お前さんは。八がどうしたんです、待って下さい」  声を掛けたが追っ付きません。下駄を突っかけたが、格子を開けるうちに、怪《あや》しの男は路地を出て、江戸の往来に紛れた様子、平次といえども手の下しようもありません。 「どうしたんでしょう、お前さん」  女房のお静もお勝手から顔を出しました。 「八の野郎が間違いを起こしたらしい。いま何刻《なんどき》だろう」 「まア、そのままで」 「放っちゃおけない。昼までには、大久保へ行くだろう」  八五郎に間違いがあったと見て、平次はそのまま宙を飛びました。大久保の榎の長者の家へ着いたのは、やがて昼頃、大きな森の一角を占める、豪勢な構えの中から、ウロウロと立騒ぐ人声と、せっかちな人の出入りを見ると一種の妖気を感じるような心持でした。 「銭形の親分さんで。——八五郎親分の頼みで、今しがた明神下まで使いの者を出しましたが、行き違いになったんでしょう。まだ着くはずはないが——」  不思議そうに迎えてくれたのは主人の弟源三郎でした。 「いや、もう使いの者に逢いましたよ。一体八五郎はどうしたんです」 「今朝毒にやられましたよ。家の中のものは無事でしたが、兄の富右衛門と八五郎親分はひどくやられ、一時は命にも拘《かか》わるかと思いましたが、——高田からお医者が来ていろいろ手当てをしてどうやら治りましたが——」 「それは大変で、御免なさいよ」  平次は厩口《うまやぐち》から飛び込んで、八五郎の寝ている部屋に通りました。 「親分、ひどい目に逢いましたよ」  それを聴いて、八五郎はもう床から乗り出して鎌首《かまくび》をもたげております。 「どうした八。食いしん坊をやったんだろう」 「味噌汁ですよ、——富右衛門旦那のお付き合いで一番先に飯にしたあっしと、朝早く江戸へ行く用事のあった下男の斧三郎《おのさぶろう》がやられました」 「そいつは驚いたろうな、もう大丈夫か」 「解毒《げどく》なんか間に合やしません。さんざん苦しんだが、根が馬のように丈夫だから、一刻《いっとき》(二時間)ほどしてようやく人心地がつきましたよ」 「なににやられたか、見当くらいはつくだろう」 「飯のほかには味噌汁と香の物、この辺の百姓家の朝飯にはそんなもので。古漬《ふるづけ》の沢庵《たくあん》や、米の飯に毒があるはずもないから——」 「その味噌汁をどうした」 「万一ほかの者が食べるといけないからと、苦しみながらも一家の主人ですね、旦那の富右衛門さんが、捨てさせたそうで、今頃は大川まで行っていますよ」 「ほかに気のついたことはなかったのか」 「紫色《むらさきいろ》の黒ずんだ実のようなものが交っておりましたが鰹節《かつおぶし》にしては変だと思いながら——」 「紫色の実?——ともかく、富右衛門旦那に逢ってみよう」  平次は根本的に調べる気になった様子です。     四  馬喰《ばくろう》弥兵衛と孫の文吉は、心配そうに覗いております。激しい労働に摺《す》り減らされて、六十といっても枯木のような老人ですが、孫の可愛らしさに溺《おぼ》れきった、正直らしさが取柄です。 「でも、まア、安心いたしました。一時はどうなることかと案じましたが」 「お蔭で助かりましたよ。私からもお礼を申します。ところで、この毒について心当りはありませんか」 「紫色の実のようなものが、味噌汁に浮いていたそうですが、私には見当もつきません」  弥兵衛は頑固らしく首を振ります。 「この家には、何か、むずかしいことがありゃしませんか、金のこととか、家督《かとく》のこととか、嫁入り聟取りの話——」 「私はなんにも知りませんが——」 「親方の孫の文吉さんとかいったね」  平次は改めて、側にいる子供の頭を撫でました。あまり賢こそうではありませんが、弥兵衛にしては眼に入れても痛くない様子です。 「ヘエ、この子の父親が江戸へ稼《かせ》ぎに行っておりますので、我儘ばかりして手がつけられません」 「この子が二三日前私が来たとき、庭先の藪蔭で、いろいろの草の実を取って飯事遊《ままごとあそ》びをしていたようだが、間違ってそんなものを——」 「とんでもない、知らない木や草の実の怖いことは、よく教え込んであります。それに、遊びにはいつでも、お駒さんがついていることですから、毒の実が母屋のお勝手の鍋に入るわけもございません」  弥兵衛がむずかしく頭を振るのを見ると、これ以上は何を訊いても無駄なような気がします。  榎の長者の母屋はちょうど一部を改造中ですが想像以上の豪勢さでした。百姓家には違いなく、玄関も長押《なげし》もありませんが、大黒柱が太々と、雄大な梁が縦横に頭上を走って、主人富右衛門の部屋というは、南に面した一番の奥、十畳に次の間のついた贅沢さです。 「いらっしゃいまし、銭形の親分さんで?——とんだお騒がせをいたします」  丁寧に迎えてくれたのは、三十前後の、これはすばらしく醜《みにく》い女でした。逞しくて薄あばたで、そのうえ、眼が違っていて、体格だけはひと通り立派ですが、非凡怪奇な人相です。三四日前にあった、番頭の和助の女房という若いお鈴の美しさに比べて、なんという違いでしょう。  部屋へ入ると、中は小大名ほどの僭上《せんじょう》さで、絹夜具、絵襖《えぶすま》——狩野《かの》某と署名も物々しく、括《くく》り枕の上に、主人の富右衛門は頭をあげました。 「私が富右衛門でございます。親分がお出で下さるまでもあるまいと思いますが、八五郎さんをお見舞い下さったそうで、とんだ御迷惑で」  四十前後、これは四角な顔、戦闘的で、颯爽《さっそう》として、物わかりのよさそうな分別男でした。 「とんだことでしたね。何か、心当りはありませんか、そんな悪戯《わるさ》をされるような」  平次はこともなげでした。 「とんでもない。私は人に怨《うら》みを受ける覚えもなく、八五郎親分も一緒にやられたんですから、全く災難と申すほかはありません。今ごろは毒|ぐみ《ヽヽ》が藪の中などに赤くなりかけてますから、子供がなんの悪い気もなく取って来て捨てたのを、うっかり汁《しる》の実と一緒に鍋の中へ入れたのかも知れません」  富右衛門はこんな気楽なことを考えている様子です。 「その味噌汁は?」 「捨てさせましたよ、また間違って口に入れるといけませんから。私や八五郎親分は少しの腹痛で済みましたが、女子供の口にでも入っては叶いません」  そう言えば、それに違いはありません。 「ほかの人には、なんの障《さわ》りもありませんか」 「お勝手のことまでは、よくわかりませんが、味噌汁は二た通りに用意するはずですが、一方はなんともなかったそうで。私と、八五郎親分と、朝早く出かけることになっていた、斧三郎と申す者だけが中《あ》てられました」  富右衛門は忌々《いまいま》しそうでした。 「そのお勝手を覗かして下さい」 「弟に案内させましょう」  富右衛門が手を拍《う》つと、三十七八の男が、そっと縁側から滑り込みました。主人にちょっと挨拶して、 「親分、御苦労様で、——御用は?」  なくなったお八重の亭主、この家の先代の倅《せがれ》で、当主の富右衛門には甥《おい》に当る源三郎です。兄——と言っているが実は叔父の富右衛門とは似もつかぬ、象牙彫《ぞうげぼり》のような感じのする好い男です。やや華奢《きゃしゃ》ですが、いかにも深沈とした顔色や、深々とした表情が、富右衛門とは人種が違っているようです。  お勝手にいたのは、お巻《まき》という中年者の下女でした。なんの不思議もない平凡な身扮《みなり》と、堅い表情と、無口らしさが特色です。 「毎朝味噌汁は二た鍋に仕立てます。旦那様が煮直したのをお嫌いで、頃合を見計《みはか》らって、小さい別鍋を仕立てます。今朝ほかの方はなんともないところを見ると、別鍋の方に悪いものが入っていた様子で」  そう言いながらお巻は、二つの鍋を取り出して見せるのです。一つは小さく、一つはやや大きく、間違いようもない恰好です。  お勝手を出るとちょろちょろと小さい娘が出て来ました。先日《いつぞや》文吉と飯事をしていた小娘、源三郎の娘で、美人お八重の忘れ形見、——お駒といった、夜にも可愛らしい娘です。 「ちょいと、お嬢さん」 「?」  お駒は立ち停まって、大きい眼を見張りました。大きい眼です。それは小娘とは思えぬ、緑がかった深さと、燃え上がる叡智《えいち》の眼です。 「いつかの飯事は面白かったね」 「?」 「あのときお嬢さんは、なんとなんの実を採《と》ったの?」 「青木の実と、ぺんぺん草と、虎杖《いたどり》と、たんぽぽと、それから、それから」  お駒は顔を挙げて考えております。 「|ぐみ《ヽヽ》の実は取らなかったの?」 「採《と》らない」 「|うつぎ《ヽヽヽ》や、犬ホオズキは?」 「採らない」  お駒はプイと顔を反《そむ》けました。怒ったような調子です。 「銭形の親分さん」  不意に後ろから呼ぶ者があります。 「?」  振り返って平次は驚きました、近々と立っているのは、あの透き通るような若い女房——番頭の和助の嫁で、このお駒の叔母に当る、お鈴ではありませんか。 「この児はなんにも存じません——あの時の飯事の御馳走は、ただの花や草ばかり、それも私が皆んな捨ててしまいました」  そう言うお鈴の思いきった様子や、おびえきった顔——大きく見開いた眼などを見ると、平次は気が挫《くじ》けてしまいます。 「この児が、悪戯《いたずら》をしたと思ったわけじゃありませんよ。それでは念のために、お配偶《つれあい》の和助さんにお目にかかりましょう」  平次は榎の長者の母屋に住む全部の人に、いちおう逢ってみる気でしょう。 「私は、和助でございますが——」  お鈴に連れられて来たのは二十五六の、逞しい感じの百姓男でした。陽に焦《や》けた広い額《ひたい》、はっきりした眼、青鬚《あおひげ》が目立って、少し猪首《いくび》ですがいかにも爽快な男ぶりです。 「お前さんは? ただの奉公人でもなさそうだが、親類つづきでもあるのかな」 「ヘエ、この家の別家になっておりますが、本家に入って百姓のような、番頭のような——」  和助はそう言って苦笑するのです。若女房のお鈴の非凡の美しさに比べると、様子も身扮《みなり》もびっくりするほどの違いですが、青草と藁《わら》の匂いがして、顔色を見ただけでも真夏の太陽を思わせるような男、いかにも気持の良い夫婦とも言えるでしょう。     五  平次はその日の夕方に引揚げました。榎の長者の家庭は思いのほか複雑らしくみえますが、なんであろうと、事件は食中《しょくあた》りに過ぎず、別に死んだ人もいないので、その上に調べようはなかったのです。  八五郎は脚気の方も良い塩梅《あんばい》に治ったらしく、そのまま連れて帰ってもいいわけですが、妙に気にかかることがあって、しばらく榎の長者の家に残して来ました。精いっぱい見張るように注意したことは言うまでもありません。  二三日平次は医者や本草学者を訪ねたりして、毒草のことを調べました。日本の山野に自生《じせい》する毒草|毒茸《どくたけ》は大体七十幾種、そのうち大毒と言われるもの三十六種、その中には竹煮草《たけにぐさ》も、馬酔木《あせび》も樒《しきみ》もありますが、たちどころに人命を奪うという猛毒は、市兵衛殺しと俗称《ぞくしょう》される毒|うつぎ《ヽヽヽ》、鳥兜《とりかぶと》、曼荼羅華《まんだらげ》のほかにはありません。紫黒色の実をつける毒|うつぎ《ヽヽヽ》が、おそらく主人富右衛門と八五郎と下男の斧三郎の食べた味噌汁に入ったのでしょう。そこまでは解っても、その猛毒がどうして特定の鍋に入ったか、その経路は平次にもわからなかったのです。  四五日経ちました。明神下の平次の家へ、また、 「大久保から参りました。こんどは八五郎親分じゃございませんが、妙なことがありますから、すぐお出で下さいと申すことで——」  使いの男は格子の外から伝言を棒読みにして、サッと踵《きびす》を返すのです。 「ちょいと待ってくれ」  平次は格子戸を突き飛ばすように開けて、跣足《はだし》のまま飛び出しました。使いの男はもう路地の外へ出かかっているのです。 「ヘエ、ヘエ」 「お前さんは誰だえ、——誰から頼まれてきたんだ」 「ヘエ」  使いの者は路地を絶たれてキョトンとして立ち停りました。三十二三の、百姓らしい男です。 「あ、馬喰《ばくろう》の弥兵衛親方の倅か、——よく似ているよ。江戸へ稼《かせ》ぎに出ているとは聴いたが」 「ヘエ、私は弥吉と申します。田町へ青物の荷を持って参りますので」 「誰にそんな言伝《ことづて》を頼まれて来たんだ」 「お嬢様でございます」 「お嬢様?」 「あの小さいお駒さんが、出かけようとする私を呼びとめて——まだ暗いうちでした。神田明神下の銭形の親分さんの家へ行って、こう言ってくれと——申します」 「昨夜、どんなことがあったんだ?」 「旦那様の弟の源三郎さんが、とんだ怪我《けが》をしたそうで——私は詳《くわ》しいことは存じませんが」 「それで大方見当は付いたよ。ところで、お前は百姓をしているから、こんなことに気がつくだろう、——榎の長者の家の近所に市兵衛殺しという毒|うつぎ《ヽヽヽ》の花か実はなかったか」 「藪や田圃《たんぼ》にあると必ず抜いて捨てますが、不思議なことに、四五日前でしたか、菱形《ひしがた》になった毒|うつぎ《ヽヽヽ》の実がひとつかみほど、物置の格子窓《こうしまど》の内に並べてありました。物騒な物ですから、取り捨てようと思いましたが、少し用事があったのでしばらく経って行ってみると、誰かが取り片づけた様子で、もうなくなっておりました」  弥兵衛の倅の弥吉はなんの気もなくこう言うのです。 「その窓は高いところか」 「少し高くて、子供などには手の届きそうもないところでした、——子供の悪戯《いたずら》にしては妙なことで」  弥吉の話は暗示的ですが、誰がそんな猛毒を採ったか、もとより見当のつくはずもありません。  平次は弥吉と別れて、すぐさま大久保に向ったことは言うまでもありません。神田から大久保まで、夏の薫風《くんぷう》に送られて、行き着くと昼近い陽ざしです。 「あ、親分、向うから見えましたよ。今日は良い気分だから、少し歩いてみましょうか、脚《あし》はもう大丈夫で」  八五郎は岡の蔭から、いそいそと飛んでくるのです。 「榎の長者の家に大変な事があったそうじゃないか、俺はそれを調べに来たのだよ。お前を連れに来たわけじゃない」 「ヘエ? 主人の弟の源三郎が材木に打たれて、ちょいと怪我《けが》をしただけで、——たいしたことはありませんよ」 「弥兵衛の倅の弥吉が、明神下まで教えに来たよ。何かわけがあるに違いない」 「ヘエ、あの弥兵衛の倅がね——ひとり者で、おせっ介で妙に気のきいた男で」 「いや、使いを頼んだのは、源三郎の娘のお駒だよ」  平次は八五郎に案内させて、ともかく、源三郎を見舞ってやりました。  部屋は母屋の店口の隣で、窓の外には、いま取りかかっている改築の工事のために、石や材木などを積んであり、その辺はひどく荒らされて障子《しょうじ》の骨も折れ、格子までが叩き潰されて惨憺たる有様になっており、源三郎はその隣の四畳半に、頭半分を包帯《ほうたい》して、小さい娘のお駒に介抱されているのでした。 「どうしたんだ、怪我をしたそうだね」  平次はさりげなく入って行きました。 「あ、銭形の親分、有難うございます。たいしたことじゃございません。まったく私が悪かったので」 「?」 「少し暑いと思って、雨戸をいっぱいに押し開けて、寝ころんでいたのが悪かったわけで、ヘエ」 「床は敷いていたことだろうな」 「もう亥刻《よつ》(十時)近かったと思います。私は一年ばかり前に女房に死なれてから、悪い癖《くせ》がついて、宵にはどうしても寝つかれません。仕様ことなしに、行灯《あんどん》をつけたまま、雨戸を開けて夜の風に吹かれながら黄表紙《きびょうし》などを読んでおります。——いえ塀があるし、締りは厳重だから用心の悪いことはございません」 「?」 「娘のお駒が——とんだ孝行者で、宵からやって来て、肩を揉《も》んだり、話をしたり、なかなか動きそうもありませんでしたが、亥刻《よつ》になったので、無理に追い帰しました。すると、しばらくすると、窓の外に立てかけてあった十本ばかりの材木が、風もないのに、いきなり私の頭上へ倒れて来ました。——縄で留めてあるからそんなはずはないのですが、あとで見ると、丈夫な麻縄《あさなわ》が刃物で切ったように切れていたそうで、——普請に使うつもりで近頃ここへ積ませた材木ですから、縄は腐《くさ》るはずもありません」 「危ないことだな」 「幸い、娘が持って来てくれた布団や踏台《ふみだい》があったので、私の怪我も少しのことで済みました。あの踏台や布団がなかったら、命が危なかったわけで」 「どれ、どんな工合か、見せてもらおう」  平次は事件のあった隣の部屋を覗きました。部屋の隅には押し潰された踏台と子供の手箱があり、人形にでも被《かぶ》せたらしい可愛らしい布団まで畳んであるのです。  部屋の中に倒れこんだという材木はもとのとおりに直して、厳重に太い縄で縛ってあり、こんどは容易のことでは崩れそうもありません。庭下駄を突っかけて外へ廻ってみると、材木にはなんの不安があるわけではなく、わざと縄を切って、後ろから人間の手で押し倒さなければ部屋の中に倒れるはずもないのです。 「親分、これは?」  八五郎は縄の端《はじ》っこを見せました。かなり太い麻縄《あさなわ》が、地上五尺ほどのところで、鋭利な刃物で切ったらしく、見事に切られており、その切り口に新しい泥がこてこてに塗られているのも不思議です。 「あの娘ですよ、親分。父親の部屋へ踏台や手箱を持込んだのは」  不意に、八五郎は指さしました。父親の源三郎の部屋から出てきたお駒は、廊下にしばらく足を停《と》めましたが、なんと思いましたか、逃げるようにお勝手の方へ飛んで行ってしまいます。 「あの娘は手に負《お》えませんよ。蝶々《ちょうちょう》のように可愛らしい癖に、蝶々のように素早いから、つかまえようはありません」 「それじゃ、叔母に当るという和助の女房にでも訊くんだ」 「あの綺麗な年増《としま》も少し苦手だが——」  八五郎は、ことに女に対しては自信がなさそうです。     六  平次は馬喰《ばくろう》弥兵衛の家でしばらく待ちました。後ろは飼葉《かいば》を山ほど積んだ小屋で、それを隔てて三頭の荒馬を繋《つな》いだ厩《うまや》があり、馬が絶えず羽目を蹴飛ばしたり、馬同士でふざけたり、時には気が立って喧嘩もするので、決して安らかな住居ではありませんが、馬になれて、境遇に安住する弥兵衛と、鈍感な八五郎とはたいして苦にもせずに、その日その日を過ごしているのでしょう。  しばらくすると八五郎が戻って来ました。 「驚いたことに、あのお駒という小娘は、脅《おど》かしにも甘《あま》い口にも乗りませんよ。文吉を連れて、遠く田圃の方へ遊びに行ったようで」 「それで、ぼんやり戻って来たのか」 「どういたしまして。あの和助の女房のお鈴は、とんだ愛嬌者で、江戸の御用聞が珍しいか、すっかり仲よしになって、いろいろ話してくれましたよ、——側へ寄ってみると、近まさりする良い年増ですね」 「顔ばかり見ていて、肝腎《かんじん》の話を訊くのをわすれたわけじゃあるまいな」 「ずいぶん、打ち明けてくれましたよ。きりょうはたいしたものだが、人間は少し甘いようで」 「甘い同士で、お前と気が合ったんだろう」 「へ、ヘッ、まア、そんなことで」 「さっそく訊こうよ。あの家に何か揉め事はないのか」 「今の今といっては、なんにもありませんが、妙なことになっているそうです」 「?」 「榎の長者の旦那富右衛門は、先代の義理の弟で本当は跡取りでもなんでもなく、ただの冷飯《ひやめし》食いだったが、肝っ玉も知恵もたいした男で、先代の主人が死んだとき、跡取りになる倅源三郎と、|うまい《ヽヽヽ》取引をしてしまいました」 「取引?」 「取引じゃありませんか。源三郎があのとおりの好い男でしょう。そのころ許嫁《いいなずけ》になっているお清を嫌い、富右衛門と縁談の持ち上がっている、死んだお八重と懇《ねんご》ろになり、それを知った富右衛門はうまい取引を持ち出した」 「?」 「跡取りの源三郎が身を引いて榎の長者の身上《しんしょう》をそっくり富右衛門に継がせてくれるなら、富右衛門は許嫁《いいなずけ》のお八重を思いきって、醜《みにく》いが、金も義理もあるお清と一緒になる——と言い出した。花より団子という兵法でしょう」 「なるほどな」 「そこで榎の長者の跡取りは富右衛門となり、先代の倅の源三郎は身を引いて弟分になり、大久保一番と言われたお八重と夫婦になった」 「それっきりか」 「お八重はお駒を産んだが、一年前に死んでしまった。が、今となってはいったん富右衛門に渡った榎の長者の身上《しんしょう》は戻って来ない」 「その辺に何かありそうじゃないか」 「お八重の妹のお鈴は、番頭の和助に惚《ほ》れて一緒になった。あの和助という男は丈夫一方の泥臭い男のようだが、竹を割ったような気持の男で、妙に女に持てる」 「まるで、八五郎みたいだな」 「それにしても、お鈴はたいした拾いものですね。あのきりょうで、気の軽い、付き合い良い嫁ですよ——これだけのことを、なんの思い入れもなく、すらすらと話してくれました」  八五郎の話は大方それで尽きました。 「御苦労御苦労、それで話はわかったが、誰も疑いようもない。もう少しここに頑張《がんば》って、様子を見ていてくれ」 「あっしはまだ神田へ帰れませんか。脚気《かっけ》なんかもう、三年も前に治ってしまいましたが」 「何を言うんだ、保養《ほよう》に来たのは、たった一と月前じゃないか——あのお駒とか言う小娘と仲よしになって、いろいろ訊き出しておけ。油断をしちゃならねえ」 「ヘエ、なにを訊き出していいか、ちょっと見当もつきませんね」 「どこから誰が木の実や草の実を集めたか——毒|うつぎ《ヽヽヽ》がどこにあるか。ここは藪だらけだ、早い話、庭先にも馬酔木《あせび》があるじゃないか。小さい小さい鈴のような白い花が咲いているだろう、あの木を煎じて馬の飼葉《かいば》に交ぜてやるとどんな丈夫な馬でも気違いになる。木にも草にも、恐いものがあるのだよ」 「ヘエ、あの娘っ子を一つ口説いてみましょう。なんか知ってるに違いない」  そうは言うものの、人形のように可愛らしくて、昆虫のように敏捷《びんしょう》なお駒は、八五郎の手には負えそうもありません。     七  平次はもういちど明神下へ帰って行きました。大久保へ泊まっているほどの用事はなく、気候が良いと事件繁多で、八五郎に付き合ってもいられないというのでしょう。  それから二日、事件はとうとう破局《クライマックス》に乗りあげてしまいました。  真夏の、ある静かな晩、大久保の榎長者の厩《うまや》から怪火を発しました。連日の晴れつづきで、乾ききった飼葉《かいば》の山が、一片の火口《ほくち》のように燃えて、その隣の馬小屋をひと嘗《な》めにしました。そこに繋《つな》がれた三頭の駻馬《あれうま》は、焔《ほのお》に驚いて巨大な恐竜のように荒れ狂い、手綱を切って土間伝いの母屋に狂奔《きょうほん》したのです。  ほのおは渦《うず》を巻いてその後をおい、三頭の奔馬《ほんば》は怒涛《どとう》のように、渡り廊下を突進しました。突き当りは主人富右衛門の部屋です。  それは実に咄嗟《とっさ》の出来事でした。主人富右衛門は飛び起きました。夜半過ぎであったにもかかわらず、平常着《ふだんぎ》のまま襖《ふすま》を開けて、パッと出合いがしら、廊下から飛び込んできた三頭の馬が富右衛門を蹄《ひずめ》に掛けて、部屋の中へ一陣の風のように雪崩《なだ》れ込んでしまったのです。  一歩遅れた内儀のお清は、三頭の馬にあおられて、部屋の中に引っくり返されました。すべては真っ暗な中の出来ごとで、他からは救いようもなく手のつけようもありません。  奔馬は主人の部屋の向こう側の雨戸を蹴破って、暁近い闇の中に飛び去りました。幸い厩と母屋は少しばかり離れており、近所の人達が駈けつけて、飼葉小屋と厩を焼いただけで火事は納まりましたが、ひどい目に逢ったのは、飼葉小屋の隣に泊まっていた八五郎です。 「おや、八五郎親分、怪我はありませんか」  庭でさいしょに声をかけてくれたのは、主人の弟のまだ繃帯《ほうたい》の取れない源三郎でした。 「おや、源三郎さん——驚きましたな。火が早いんで、逃げ出すのが精いっぱいでしたよ」  そのうちに、馬喰《ばくろう》の弥兵衛も、孫の文吉も、顔が揃いました。手代の和助や、女房のお鈴は、駈けつけた作男や近所の人達と一緒になってまだうろうろと右往左往しております。 「八、驚いたか」 「あ、銭形の親分」  暁近い闇の中、余燼《よじん》の中で立ち働く人々の中から、銭形平次が顔を出したのは、八五郎に取ってはまったく予想外の出来事でした。 「ま、怪我がなくて良かったよ」 「親分は、どうして、こんなところに」 「あんまり気になるから、二日前に神田へ戻ると見せかけて、高田馬場の直助親分のところに泊まって、よそながらお前を見張って居たのだよ」 「ヘエ、そいつは驚きましたね」 「庭の馬酔木《あせび》の枝は切ってあったし、その枝や葉を、庭先の野天竃《のてんへっつい》で煮ているのを見て、妙に気になってならなかったんだ。煙の向うに石を並べた野天竃があるだろう。あれは野良稼《のらかせ》ぎの男達が、お八《や》つのお茶をわかす時に使う場所だ。鍋をかけて馬酔木を煮るのは容易のことじゃあるまい、馬を気違いにするほかには用のない品物だ」  平次が大久保へ踏み留ったわけもそれでわかりました。 「ヘエ、そんなことがあったんですかねえ」 「それより、主人の富右衛門さんが、馬に蹴《け》られて死んでしまったようだ。様子を見に行こう」  平次は八五郎と一緒に母屋の廊下へ行きました。奥の主人の部屋には、家中のものが集まって、跡始末に余念がありません。 「銭形の親分、ちょうどいいところでした。この騒ぎの中ですが、腑《ふ》に落ちないことが、たくさんありますが」  近づいてきたのは弟の源三郎でした。 「火事はたいしたこともないが、ご主人は大変なことでしたね」 「有難うございます、——ところで、皆んなも驚いていますが、火事だと聴いて飛び出そうとすると、母屋の雨戸が皆んな外から心張《しんばり》や和鍵《わかぎ》で締りがしてありました。私の部屋も和助の部屋も。これはどうしたわけでしょう」 「私にも呑込めないことがあります。お嬢さんを呼んで下さい、あのお駒ちゃんという」  平次は他のことを源三郎に頼みました。  しばらくすると、源三郎は、どこで捜し出したか、娘のお駒の手を取るように平次の前へ連れて来ました。 「あ、駒ちゃん——もう話しても良かろう、——厩《うまや》の閂《かんぬき》を掛け替えたのも、お駒ちゃんだろう」 「?」 「厩の入口は二つある、母屋の奥に向った土間の廊下の入口と、店の方の土間に向った入口と、さいしょ店の方へ向いた入口の駒留《こまど》めの閂がはずしてあったはずだ。それをしっかりと掛け直して馬が飛び出さないようにし、奥へ向いた土間の入口の駒留めの閂をはずしておいたのは、誰のせいだろう」  平次は静かに訊ねました。平次の手は柔らかにやや背の延びた、お駒の肩に、撫でるようにそっと置かれたまま、その下っ膨れの可愛らしい顔をのぞくのです。 「駒ちゃん、もう心配はない。皆んな話してくれ。決してお前を叱りはしないから」 「小父さん、私が悪かったでしょうか。駒留めの閂を掛け替えて悪かったでしょうか」 「馬が暴れだすとは、誰だって思わないよ」 「馬が暴れて店から入ると、お父さんも、私も、叔母さんも和助さんも危ない」 「それから、材木の倒れることをどうして気がついた。踏台《ふみだい》や布団を持込んで、お父さんを助けたのも駒ちゃんだ」 「あの時——少し前に誰かが、あの縄を切ったのを見たんですもの。ほんのちょっと、材木の後ろから押せば、たいへんですもの」  娘はその本能で父親源三郎の危険を感じたのでしょう。 「紫《むらさき》の実は?」 「誰かが、小屋の窓に気味の悪い木の実を乾していたし、その実を刻《きざ》んだのが、汁鍋《しるなべ》の中に浮いていたんですもの。大きい鍋と小さい鍋の中身を取り替えただけですもの。でも八五郎さんには悪かったわね」  お駒はこの時はじめて八五郎に笑顔を見せました。  もうなんにも調べることも、話すこともありませんでした。平次は脚気などはもう忘れてしまった八五郎と一緒に、一同に別れをつげて大久保を引揚げました。一二丁ほどの畑道をお駒と文吉が送ってくれたのが長い思い出になりました。     * 「妙なことでしたね。あの話しの様子では、悪者は主人の富右衛門のようですが、あれだけの身上《しんしょう》を持っている癖に、なんだってあんなことを企んだんでしょう」  道々八五郎は、平次に問いかけました。 「つくづく源三郎が憎かったのさ。お八重は死んだが、金も身上も手に入れてみるとたいしたものじゃない。源三郎と和助を殺してしまいたかったのに違いない」 「恐ろしい執念《しゅうねん》で」 「毒の味噌汁で源三郎と和助を殺そうとしたが、お駒に鍋《なべ》を替えられて、自分と八五郎がひどい目に逢った。あのお駒というのは、不思議な娘だよ。二度目には材木を倒そうとしたが、それもお駒に感づかれて、やりそこねてしまった」 「ヘエ?」 「三度目は馬に馬酔木《あせび》の煮汁を呑ませ、厩《うまや》火事をこしらえて三頭の馬を源三郎と和助の部屋へ追い込もうとしたが、それもお駒に感づかれて、駒留めの閂を掛け替えられた」 「そんなに源三郎や和助が憎かったでしょうか」 「お八重を忘れ兼ねている源三郎も、お鈴を女房にした和助も憎かったのだ。悪人もあれほどの念入りになると、自分のものでないものは、猫の子も憎くなるらしいよ。富右衛門は、皆んなに嫌がられていた。味方というものは一人もない」 「それにしても、あのお駒という娘は不思議な娘でしたね」 「あれは年頃になると、ただの娘になるよ。もっとも綺麗な娘になることだろうが」  すべてが無事に納まって榎の長者の家は、なんにも知らぬ源三郎が継いでゆくことでしょう。  宿場の女     一 「親分、一生のお願いだ、このとおり」  ガラッ八の八五郎は路地から飛びこむと、いつものとおり泥棒猫のように飛び込むのかと思うと、格子の前で衣紋《えもん》を直し、丁寧に中へ入って、いつもの居間に寝そべったまま、不精煙草をくゆらしている、親分の平次の前に、恭々《うやうや》しくも両手を突くのです。 「おや、珍しいことだな、八。小河原流に手を突いて、何を申し上げるんだ、——せっかくだが、今日はたんとはねえよ」  平次が顎《あご》をしゃくって見せると、女房のお静が心得て、そっと紙入れを滑らせてやりました。それを受取ると、中も改めずに、八五郎の膝の側に押しやるのです。 「親分、今日は金を借りに来たんじゃありませんよ」  八五郎は屹《き》っとなりました。 「そいつは悪かったな、まア、勘弁してくれ。お前が頼む事というのは、金のほかにあるまいと判じたのは、俺の早合点さ」 「相済みません。この術《て》で何べんも姐さんまで剥《は》いだんだから、無理もありませんが、今日は人の命に拘《かか》わることなので」 「人の命に拘わる話しは穏やかじゃないぜ。果たし合いの助太刀か、それとも——」  平次も想像が及びません。 「それどころじゃありません。事と次第では八州《はっしゅう》の手先、伊奈半左衛門様御手代を向うに廻して、ひと働きを願いたいんで」  八五郎は大変なことを言い出すのです。申すまでもなく、江戸の町は新宿、高輪、などの大木戸の内は町方の支配で、一歩江戸の外へ出ると、韮山《にらやま》代官の支配となり、公安の取締り、もろもろの犯罪は八州の手先が処理したのです。  そのやかましい縄張りを越えて、江戸の町の外へ、町方の御用聞の平次が手を伸ばすということは、なかなかに容易ならぬことだったのです。 「たいそうなことを持込んで来るじゃないか。いったい、何をやらかしたんだ」  川崎詣りで大山詣りの若いのが、江戸を離れて事を起こし、代官の手先の厄介になって、顔の広い平次にもらい下げてくれという頼みは、今までもないことではありません。平次は大方そんなことだろうかと多寡《たか》を括《くく》っている様子です。 「初めから申しましょう。ツイ一と月ばかり前、町内の若い者が誘《さそ》い合せて、大山様に詣りました」 「それは聴いたよ、帰りは品川で潰《つぶ》れてしまって、三日もブン流したというじゃないか。罰の当った手合いだ」 「相済みません。が、それはそれで済んだとして、済まなかったのはあっし一人で」 「何を言いやがる、割前でも出せなかったのか」 「先を潜っちゃいけません。品川で押し上がったのは、親分は御存じないでしょうが、ちょいと評判の上総屋《かずさや》——海の向うに上総の山が見えるのが自慢で、それから板頭《いたがしら》はお栄といって二十歳《はたち》になる凄い上玉、江戸の吉原にだって、あんな妓《こ》はいませんよ」 「お前の惚気《のろけ》を言いに来たのか」 「とんでもない、——話は順序を通さなきゃなりません、——そのお栄という妓の本部屋に通って、差し向かいになって、つくづく顔を見ると、親分」 「脅《おど》かすなよ、いきなり大きな声なんか出して、——相方が化生《けしょう》の者だったと言うのか」 「あっしが親がかりで、向う柳原の餓鬼《がき》大将をしているころ、横町に住んでいた仕立屋の総領娘だったじゃありませんか。品川にはお職も源氏名《げんじな》もないから、そのころからお栄ちゃんといいましたが——痩せっぽちで青白い子だったけれど、眼が大きくて、情合があって、そりゃ可愛い娘でしたよ」  八五郎の惚気《のろけ》は、平次の呆れかえった表情に構わず、地道に深刻に進みます。 「この間からおまえは遊びをはじめた様子だ——と伯母さんがこぼしていたが、相手はその女だったのか、幼馴染《おさななじみ》なんてものは恐いよ」 「親身《しんみ》に聴いて下さいよ、親分。色気や浮気の沙汰じゃないんで、——話してみると気の毒なことに、今から五六年前に父親に死なれ、家業が落目になって品川の漁師町に越し、母親と妹のお浜ちゃんと三人、細々と暮らしたが、高い利子のつく金を借りてどうにもならなくなり、一昨年《おととし》の暮れに上総屋に身を沈め、年いっぱいの約束で二十両、女衒《ぜげん》やら世話人やらにむしられて、手取りはたった十両」 「?」 「辛いつとめを歯を喰いしばって続けて来たが、可愛そうにお栄は身体も弱く、板頭とかなんとか言われたばかりに、無理な稼ぎをした上に借金が嵩《かさ》むばかり、——手練《てれん》も手管《てくだ》もない、幼馴染の私が、お前さんへこぼす愚痴《ぐち》だが、私は本当に死にたい——と涙を流して言うじゃありませんか」 「男は皆んなその術《て》で、うかうかと引き寄せられるとよ。間抜けだなア」  平次は生欠伸《なまあくび》を噛みしめました。八五郎の岡惚れは鼻風邪《はなかぜ》程度のもので、惚気話と来ては、それに付属する症状——水っ洟《ぱな》みたいなものだったのです。 「何を隠しましょう、あっしはそれから二三度いや、五度までも品川へ行きました。あの里は漁師と坊主と、道中の人足がお客だ。みっともよくねえから、親分にも黙っていましたが、たび重なると、情が出て惚れたはれたとは別に、お栄はまったく可愛そうな女でしたよ。身体が弱くて、糸のように痩せると、神田っ児で磨きが良いから、かえって凄いほど綺麗になる。それに金持ちの浪人で波崎敬之助《なみざきけいのすけ》という四十男と、早船の三次という恐ろしい男が馴染客だ。わけても浪人波崎敬之助は、五十両という金を積んで、この秋にはお栄を身請けしようとしている」  まさか八五郎は、その五十両を平次に無心して、金持ちの浪人と張合うつもりでもなかったでしょうが、隣の部屋のお静も思わず聴き耳を立てました。     二 『品川にいるに蔭膳《かげぜん》三日据え』という川柳が説明するとおり、そのころ江戸っ児が宿場女郎に溺《おぼ》れて、思わず羽目をはずす可笑し味がよく噂《うわさ》になりました。  吉原の外に四宿があり、一歩踏み出すと格も空気も違い、手軽に安直に、そして遊びも面白くなったのでしょう。 「親分、手っ取り早く話の埒《らち》をあけると、その上総屋《かずさや》のお栄が、死んでしまったのです」 「?」 「品川の女郎が一人、死のうが生きようが天下の御政道には関わりはないようですが、本人は言うまでもなく、親許になると、これが大変なことです」  八五郎はここまで来て心せわしく話の本題に飛び込むのです。 「私が久し振りで行ったのは昨日の夕方、二階に陽の当っているうちに入るのも気がさすから、近所で一杯やっていると、上総屋の店先が妙にザワザワするじゃありませんか、こいつは変だと思って店の親爺《おやじ》に訊くと、大きい声じゃ言えねえが、なんでも、けさ方変なことがあったらしい——という話。飛び込んでみようと思ったが、江戸の御用聞じゃ、こちとら十手が通用しねえ」 「?」 「幸い裏口から出て来たのは、顔見知りの上総屋の若い衆の幸吉。物蔭に呼んで訊くと、今朝方二階の本部屋で、板頭《いたがしら》のお栄が、喉《のど》を突いて死んでいたという」 「……」 「殺しだか、自害だか、ちょいと見当は付かねえ、——殺しと決まれば、下手人を挙げなきゃならないが、自害と決まれば、親許が身《み》の代《しろ》金を倍にして返す。これが宿場定法だというじゃありませんか」 「で、どうきまった」 「お栄の死骸は窓を開けた部屋の中にあったが、死骸の側には刃物はない。お栄が死に際に窓から抛《ほう》る手もあるが、海は見えると言っても、水際から少し離れているから、手負いの女が死に物狂いで抛ったところで、刃物は海までは飛ぶはずはない。役人方も立会って、いちおうの検屍を済ませたが、見当が付かなくて困っているということで」 「そこで、俺に出て来いというのか、そいつは無理だよ八。江戸の御用聞が、そんなところへ顔を出すと、またうるさいことになりそうだ。せっかくの頼みだが、そればかりは御免|蒙《こうむ》るよ」  平次は先をくぐって首を横に振るのです。 「あっしは幸い家の者も知っているから、十手を隠して、客ということにしておし上がってみましたよ。可愛そうにお栄は、右の首筋を深々と斬られ、血の海の中に死んでおりました。痩せ細った蒼い顔を見ると、あっしはもう」 「泣くなよ、八。それからどうした?」 「八州の役人が来て、威張り返っているのを見ると、あっしは腹が立って腹が立って、噛み付いてやろうかと思いましたが、江戸の町方が名折れになっちゃ悪いと思って、唇を噛み締めて戻って来ましたよ。困ったことに」 「何が困るんだ」 「お栄の部屋の窓は、たいして暑くもないのに開けてあるし、その上、窓の上の長押《なげし》には、お栄の物に違いない緋縮緬《ひぢりめん》の扱帯《しごき》が二本、結んだまま投げかけてあって、それが中程で毟《むし》ったように切れている、——お栄はさいしょ首を縊《くく》ろうと思って、自分の扱帯で長押にブラ下がったが、扱帯が切れたので、改めて短刀で喉を突いたらしい」 「刃物がないと殺しになるが」  平次もそれを気にしている様子です。刃物が死骸の側になければ殺しにきまっており、本人の親許には何の拘《かか》わりもなくなりますが、その代わり下手人を挙げないと、係りの役人の手落ちになります。     三  八五郎はさんざん粘《ねば》って帰りました。平次は八五郎の幼な馴染のために、品川へ|敵討ち《かたきうち》に出かけるほどの自信もなく、よしやまた下手人を見つけたところで、八州の手先と張り合って、つまらない問題を起こす気にもなれなかったのです。 「八五郎さんが、可哀そうじゃありませんか。しょんぼり帰りましたよ。行って上げればよいのに」  お静までが、そんなことを言うのです。だが昔の制度は、今日の国警と民警よりはまだやかましく、特別の指令か役目でもない限りは、江戸の町方が品川へ出張って顔をきかせるわけには行かなかったのです。 「柄にもなく品川などで遊ぶからだよ。放っておけ」  平次は一向に乗出しそうもありません。  それから七日ばかり経ちました。江戸の秋も深くなりかけて、馬糞埃《まぐそぼこり》の中に、どこから飛んで来たか、美しい紅葉の落ち葉が舞ったりしますが、御用の方は案外に暇、平次は平凡で無事な日を送って、ときどきは八五郎のことを思い出したりしておりました。  あんなにまで言って来たのだから、もう少し親切に聴いてやって、少しは助力なり言葉だけの手伝いをしてやるべきであったかも知れない——そういった悔《く》いにも似たものが、ほろ苦くあの日のことを思い出したりするのでした。 「お前さん、お勝手に、あの人が——」  お静はそう言って、お勝手の方から顔を出しました。 「誰だえ、押売りならおまえが断ってしまえ」 「そんな者じゃありませんよ。八五郎さんですよ。ひどく恐れ入って、——二つ三つお辞儀をして、親分に逢わせて下さい——ですって」 「呆れた野郎だ。いつも挨拶もせずに、犬小屋に入る犬のように飛び込んでくる野郎が——大玄関へ廻れとそう言ってやれ」 「お連れがあるようですよ」 「構わないじゃないか。どうせお勝手口から連れ込む相手なら、付け馬か借金取りにきまっている」 「いえ、若い娘さんで」 「小料理の勘定が足りないんだろう」  そういう声が筒抜けると、八五郎も極り悪そうに表へ廻った様子、蚊《か》の鳴くような声で、 「おはよう、親分」  などと恐ろしくしおらしいのです。 「よっぽど悪いことをしたのか、八。お連れがあるなら、一緒にお通しするんだ」  平次はそれでも機嫌よく八五郎を迎えました。  そう言われて八五郎の後ろから入って来たのは、十七八の、これは可愛らしい娘でした。その頃の常識から言えば、申し分のない娘盛りですが、紅も白粉《おしろい》も、髪の油気さえない恐ろしく無造作な顔と、その身扮《みなり》の貧しさも痛々しいほど徹底して、木綿物の継ぎはぎだらけ、赤い帯もよれよれで、蝮《まむし》をこさえて形ばかりの下駄を履《は》いているのも、あまりのことに正視のできない姿です。 「親分、この子は、お栄の妹のお浜ちゃんで——」 「あ、そうか、姉さんは気の毒だったな」  平次もツイそう言ったほど、それは哀れな様子でした。  内職と水仕事で、荒れ果てた青春ですが、顔を挙げた小娘の美しさはなかなかで、その張りきった頬にも、大きい眼にも、負けじ魂だけがピチピチと踊ります。 「親分さん、お願いでございます」  そう言ったきり、小娘は自分の膝に瞳《め》を落しました。払いも敢《あ》えぬ涙が、どっと貧しい膝に散ります。 「どうしたというのだ」  平次もツイこう誘わなければなりませんでした。 「親分、あっしは親分のところへ来られた義理じゃありませんが、お栄の家へ悔《くや》みやら後始末の手伝いやらで行って見ると、あんまり虐《むご》たらしくて見ちゃいられません。——喧嘩や腕ずくなら、力にも張合いにもなれるが、金ずくとなっちゃ手も足も出ねえ、親分に叱られるのを承知でまたやって来ました。——」  八五郎は思い入った様子で、真四角に、膝に手を突っ張るのです。 「たいそう、改まるじゃないか。何がどうしたというのだ、八」 「上総屋《かずさや》のお栄が死んだ、——それは親分も知ってのとおりだ。ところで、昨夜は初七日、今日八日目になるが、まだ、人に殺されたとも、自害とも決まらないうちに、上総屋から人が来て、母親のお品さん、——足腰も起たなくて、お栄からの少しばかりの仕送りと妹娘のここに入るお浜の手内職で、ずいぶん苦労をしているのに、お栄は自害したに相違ないから、御法どおり身代金二十両の倍四十両と、長いあいだの立替えやら賃金、諸掛かりを含めて六十両の金を、今すぐ纏《まと》めて返せという、こう言う難題だ」 「それは、ひどい」  平次も驚きました。お栄が自殺したと決まったわけでもないのに、その遺族の娘を売るような貧乏人から、六十両の金を返せというのは、いかにも無慈悲《むじひ》な申し出です。  だが、その当時の法はそれを許していたのです。法規は不文律であったにしても、身売りをするとき、親許から入れた証文には、確かとした証人まで立てて、万一本人が相対死《あいたいじに》(心中)または自害をした時は、身代金の倍額を御支払申すべくと、判こを突いた証文が入っているのです。 「……」  平次もこの厳しい法を知らないではなく、先頃から妙に気にしていたのです。  人身売買はあの手この手を用いて、良識と善意と、愛情の世界を混濁し、大手を振って法の上に|のさ《ヽヽ》張って来ました。金のために売られた女たちは、手も足も出ぬ窮地に追い込まれ、その恐ろしい運命に屈従して、俎《まないた》の上の魚のように、一寸だめし五分だめしに、その肉体を切り刻《きざ》まれるほかなかったのです。  その運命のきずなを打ちきる方法は、自分の生命を自分の手で絶ちきる方法しかありません。浄瑠璃《じょうるり》と歌舞伎芝居と、読物と伝説の世界は、仏教的な諦めの思想に結びついて、心中と自殺が、こういった世界に浸透し、肉の切売りに疲れ果てた女達は、相手を誘うか、自分一人で往くか、ともかくも、争って『彼《あ》の世へ』と逃げ込むのも無理のないことだったのです。  一時吉原では遊女の自殺を誘うという理由で、ある種の音曲《おんぎょく》の流しさえ禁じたと言われますが、そんなことはなんの予防法になるわけではなく、ついには相対死の男女を日本橋に晒《さら》し物にしたり、人別を外《はず》したり、生き残った一方を処刑したり、あらゆる残酷《ざんこく》な制裁を加えましたが、それでも徹底的に防ぐ方法はなく、ついには、宿場女郎、——飯盛女郎の比《たぐ》いは、自殺をして死んだ場合は、その親許から、身代金の倍額の賠償金を受け取る——という、恐ろしい規定を作り、身売の時の証文に書き込ませることにしてしまったのです。  この法規は一つの慣習法でもあり、人身売買に付属する契約でもありました。江戸幕府が支配していたころ——しばらくの間、この残忍無類の自殺取締法は実行され、宿場女郎たる者は、どんな目に逢わされようとも、死ぬに死なれぬように仕組まれていたのです。 「お栄の身代金は二十両だが、それは表向き、本当に母親の手に入ったのは、たった十両。諸払いや薬代に、半歳と保つはずはない。今となって六十両の金はおろか、六貫六百の銭もあやしい、——あっしはそれを聴いて上総屋へ怒鳴《どな》り込もうと思ったが、八州の目明しに盾《たて》を突くわけにも行かず、聴いてみると上総屋の裏の草叢《くさむら》の中から、出刃包丁ほどの匕首《あいくち》を拾った奴がある」 「その匕首は?」 「血なんか付いちゃいません。鰯《いわし》のように錆《さ》びているが、——八州の目明しの言うことには、お栄が自分の喉《のど》を掻《か》き切った後で、この匕首の血を拭いて、窓から抛ったに違いない、——自分の喉笛を掻き切った女が、血まで拭いて、得物を窓から抛られるものでしょうか。それに部屋の中には、その血を拭いた紙も巾《きれ》もない」 「……」 「八州の役人にたいした悪気はなかったかも知れないが、上総屋の頼みを断りきれず、世の中に何事もないようにと、お栄の死んだのを深くも詮索《せんさく》せずに、自害にして片付けてしまったわけでしょう。下手人を拵える世話もなくて、それで天下泰平かも知れないけれど、困ったのは残る母親と妹だ」 「……」 「親許へやって来て、隅から隅までねめ廻した末、どう叩いても金気は愚《おろ》か、埃《ほこり》も出ないとわかると——憎いじゃありませんか、親分。お栄の償《つぐな》いを六十両、今すぐ耳を揃えて出さなきゃ、そこに金目のものが控《ひか》えている、——こっちも大負けに負けて我慢してやるから、妹のお浜を勤めに出せ。多いも少ないも言わない代り、年いっぱいの勤めで差し引いてやろうと、追っかけて二人三人、息も突かせぬ強談だ。姉のお栄が死んだ上に、妹のお浜まで取られたあと、足腰の立たない母親がどうなると思います、親分。あんまり無法な言い分だから、口を利いてやろうと思ったが、証文が入っている上に、八州の役人の威光を楯に、ビクともすることじゃねえ、親分」  八五郎は、口惜し涙を紛らせて、拳固《げんこ》で鼻を撫であげるのです。  お浜はその蔭に隠れるように、ただ泣き伏しておりました。  隣の部屋に居たらしいお静は、前掛けで涙を押えて、そっと平次の黙りこくった袖を引きます。 「お前は黙っていろ」  平次はその袖を払いました。ひどく無慈悲なようですが、その表情に妙に柔らかいもののあるのを、お静は感じないわけには行きません。 「親分さま、——お願いでございます」  お浜は口の中でそう言いました。精いっぱいの努力でしょう。払っても拭いても、後から後から湧く涙を、持て余している姿です。頬が赤くなって、埃だらけの髪に縁取《ふちど》られた小さい顔、せぐり上げる唇が物欲しそうな赤ん坊のように歪《ゆが》んで、この汚い娘の魅力もまたひと通りではありません。 「よし、行ってやろう。お前の姉さんが、自害でないとわかれば、それでいいのだろう」 「ハイ、上総屋さんさえ無理なことを言わなければ、私は、私の身を粉にしても、おっ母さんと二人で無事に暮らします」 「そう思い定めるなら、やってみよう。八州のお役人を相手に、いやなことも仕なきゃなるまいが、幸い私は、袖《そで》ヶ浦《うら》の幸吉親分に、少しばかり手伝っている。売った恩を返してくれと言うわけではなく、折り入って話したら、あの幸吉親分のことだ、満ざら話がわからないこともあるまい」  平次はとうとう立上がったのです。お静はいそいそと支度をして、その後姿を格子《こうし》の蔭で拝んだことは言うまでもありません。八五郎は犬っころのように先に立ちました。お浜は涙で赤く上気《のぼせ》た顔を極り悪そうに隠しながら、その後に続きました。     四  品川の漁師町で、お栄お浜姉妹の母親、病みほおけて、一介の乾物《ひもの》のようになっている後家のお品を訪ねて、平次は、思いきってこの仕事を引受けて良かったと思いました。 「ね、親分、百人の悪党を縛《しば》るより、一人の善人を助けた方が功徳《くどく》になりゃしませんか」  八五郎がそう言うと、 「娘が御無理を申したそうで、親分さんはさぞお困りでしょうが、このとおりの親娘《おやこ》ですから、右から左へ六十両出せといわれてもどうにもなりません。そうかと言ってこの娘まで溝《どぶ》の中に抛り込むように、上総屋に引取らせるわけにも参りません」  まだ老い朽《く》ちた程ではないが、長い病苦と貧乏にやつれ果てた母親のお品は、濡れた雑巾《ぞうきん》のように打ち悩まされております。 「まアまアなんとかやってみましょう」  平次はこんな気休めを言うほかなかったのです。  漁師町を出て、袖ヶ浦の幸吉を訪ねると、これは、 「おや、銭形の親分。すっかり御無沙汰しちゃって済まねえ、——今日はまた、どんな用事で?」  と、言いながらも、まことに気の置けない顔です。 「実は上総屋《かずさや》のお栄というのが死んだそうだが、わけがあって、その始末が知りたい。済まねえが、親分が立会ってくれまいか、縄張り違いの俺が顔を出しちゃ悪いが——」  平次は折り入って言うのです。 「いいとも、俺も気に入らねえことばかりだよ、——あんな出刃包丁のような錆びた匕首で、人間は死ねるものじゃねえ、——身代金を倍増しに取ろうという上総屋も因業《いんごう》過ぎる」  平次の顔があったにしても、幸吉がこう乗り出してくれたのは願ってもない仕合せでした。  平次と幸吉と八五郎と、三人上総屋へ乗込んだ時の上総屋の主人をはじめ男衆から遣手婆《やりてばば》アまでの不機嫌さというものはありませんが、それでも土地で顔を売った幸吉が付いているので、まさか木戸を突くわけにも行きません。  さすがに平次は上総屋の広い梯子《はしご》を避けて裏からそっと登りました。案内に立ったのは番頭が一人、女どもや弥次馬が二人三人、恐る恐る後に従います。  さいしょに見せてもらった匕首、これは窓の下の草叢《くさむら》で拾ったと番頭は言っておりますが、鰯《いわし》のように錆びている上に歯こぼれがあって、これは誰が見ても女が自害しようという道具にはならず、係り役人まで愛想《あいそ》を尽かして、そのまま上総屋に預けて行ったという代物《しろもの》です。 「こいつはどう考えても自害の道具じゃないぜ。商売人には合せ剃刀《かみそり》という術《て》がある」  平次は先ず自害説に一発見舞いました。 「俺もそう思うが——」  幸吉の態度は煮えきらなくなります。 「?」 「窓際の長押《なげし》に扱帯《しごき》を掛けてあったが、扱帯は縮緬《ちりめん》だから、途中で切れている、——もっとも踏台もなんにもなかったから、自害の証拠にはならねえが、殺しに使った紐が切れたのなら、刃物で止《とど》めを刺す前に女は悲鳴ぐらいあげるはずじゃないか」  幸吉はいちおう自分の立場も弁護しなくてはなりません。 「だが、その錆びた匕首が自害の道具でないとすると、これは殺しにきまったようなものじゃないか」 「曲者はどこから入ってどこから逃げたんだ?」 「……」 「その晩、店から上がってそれっきり姿を見せない客もなく、外から忍び込んだ様子もありません」  番頭はここを先途と乗出すのです。上総屋に上がった客、出入りの人達にも、怪しいものや行方不明になった者はなく、外から忍び込んだ様子もなければ、お栄の死は自害に決まったようなものです。 「待ってくれ、——二階の手摺《てすり》にひどく傷があるが、店を通らずに二階へ——路地から梯子か綱かなにかで昇る者はないのか」  平次は手摺についた夥《おびただ》しい損傷《きず》を手で擦《さす》りました。 「そんな間抜けな色男はありゃしませんよ。下は人通りの多い路地だし、それに手摺が弱いから、少し喰《くら》い肥《ふと》った猫だってブラ下がれるものじゃありません」  横合いから噛みつくように反駁《はんぱく》するのは、乾して固めて、幾度か色気と欲気の皺寄《しわよ》せをしたような、少々不気味な遣手婆アでした。 「だがこの傷はどうしたことだ?」  平次は重ねて訊ねました。 「女たちが二階から鍋《なべ》を下げて、夜更けに通る二八|蕎麦《そば》を買うのですよ。風が悪いし、その辺を蕎麦のたれだらけにするから、いくら止せと言っても若い者は食いしん坊だから聴きゃしない」  それは、吉原などにはないことでしょうが、四宿の小店にはよくあったことで、夜の食物|商人《あきんど》は、それをまた一つのお華客《とくい》にしていたのです。 「なんということだ」  番頭は苦い顔をしておりますが、数代に亙《わた》る女たちの食欲の名残は、今さら文句を言っても張合いがありません。 「だが——」  平次はなおも念入りにその辺を調べております。 「どうかしたのか、銭形の親分」  幸吉は気が気じゃない様子です。 「この血はどうしたことだ。古くて黒くはなっているが、血に違いあるまい」  平次は手摺のしたの羽目板を指しました。そこには板の木目《もくめ》とも、泥の跡とも見えるような、そのくせ意味の深い汚点《しみ》がハッキリ見えるのです。 「あれが血だとすると、どうなるんだ」 「くせものは血まみれの匕首《あいくち》を持って、この手摺の下を、降りて行ったのだろう。現に下のほう、地面近いところに汚点《しみ》があるようだ——八、お前はちょっと降りて行って、あの下の方の汚点を、濡《ぬ》れた紙で拭いてみてくれ」 「ヘエ」  八五郎はすぐ降りて行きました。外へ出ると懐中《ふところ》から出した紙を天水桶《てんすいおけ》で濡らして、羽目板の上をゴシゴシやっていましたが、その紙を上へ向けて、 「血に違いありません。真っ赤ですぜ」 「よしよし、序にその羽目に沿って伸びている松の樹を見てくれ。皮の剥《む》けたところはないのか」 「ヘエ、こりゃ驚きましたね、松の皮はメチャクチャに禿《は》げていますよ。とんだ色男がこの松と羽目板を伝わって、二階を覗いたんですね」  八五郎が四方《あたり》構わず大声を張り上げます。 「幸吉親分、あの通りだ。二階から路地の上まで、羽目には血が付いているし、二階の上まで伸びた松の樹は、皮が剥けて『足場にいたしました』と言わぬばかりだ」 「それは銭形の親分」  袖ヶ浦の幸吉は途方に暮れました。お栄が自害でなく、殺しときまると、土地の御用聞や役人は、また下手人捜しにひと骨折らなければなりません。 「ともかく、ここまで来ると調べ直すほかはあるまい。遺書《かきおき》もなく、刃物もないのだから、これは殺しと見るほかはあるまい。すまねえが、袖ヶ浦の親分の手柄にしてお役人方にお調べ直しをお願いしてくれ。頼むぜ」  平次はそう言って、いちおうの挨拶をするのです。 「やってみよう。お役人方もあまり良い顔はなさるまいが」  幸吉もこうなると転げ込んで来た手柄《てがら》を避《さ》けようもありません。平次はなおも八五郎に何やら言い含めてしばらく近くの漁師町の、お品お浜の家で報告を待ちました。     五 「親分、いろいろのことがわかりましたよ」  一刻《いっとき》(二時間)ほどの後、八五郎が戻って来ました。お栄の死んだのは殺しと決まりそうで、お品母娘の前に、すっかり面目を施しております。 「どんなことがわかった」  母娘の者と、いろいろ話込んでいた平次も、明るい顔を挙げました。 「羽目板と松の木を登る野郎がわかりましたよ」 「色町にも、そんなタチの悪い悪戯者《いたずらもの》があるのか」 「早船《はやぶね》の三次ですよ」 「フーム」 「船頭上がりの暴れ者で、お栄に入れ揚げて一文なしになり、——もっとも冒頭《はな》っから纏まったものを持ってるわけはないのですが、近頃は牛太郎《ぎゅうたろう》に木戸を突かれて、どうしても登《あ》げてくれないので、あの松の木と羽目の間を大の字になって登り、二階の窓からお栄の部屋を覗くんだそうです。家中でその下司《げす》な悪戯を知らないものはありゃしません」 「今はどこに居るんだ、その早船の三次とかいう男は?」 「十日前に房州へ行ったということですが、当てになるものですか」 「その男を見掛けたら、しょっ引いて来てくれ。店から入った下手人がなきゃ、いちおうはその三次を当ってみなきゃなるまい」 「ヘエ、——それから、毎晩あの窓の下にくる夜鷹蕎麦《よたかそば》もわかりましたよ」 「……」 「これも漁師町の、ツイ近所の友吉という男です」 「まア、あの友吉小父さん?」  お浜は思わず声を出しました。 「その方ならよく存じております。この娘《こ》の父親と無二の仲で、貧乏同士で、兄弟のようにしておりました。いつまでも|うだつ《ヽヽヽ》はあがりませんが、そりゃ、親切な方で——」  母親のお品は床の上に顔を挙げて言うのです。 「さあ、そんなことで、帰るとしようか」  平次はこの貧しい後家《ごけ》の家を立出でました。 「有難うございます、お蔭で」  母親は涙を拭いながら見送ると、お浜は門口まで送って、少女らしくピョコリと顔を下げております。 「お前は感心だよ、——母親を大事にするがいい」  平次はその埃だらけの頭を撫でてやりたいような心持で、八五郎とともに表通りへ出ました。 「真っすぐに神田ですか」 「いや、夜鷹蕎麦の友吉と早船の三次の家を廻ってみよう」 「ヘエ?」  八五郎は意味もわからず跟《つ》いて行きます。  夜鷹蕎麦の友吉の家はツイ近所でした。 「お前さんは友吉さんというんだね」 「ヘエ、ヘエ」  お品の家に劣《おと》らぬ見すぼらしい家、鉢巻きをした四十男が、女房に助けられて、夜の商売の支度を何やら働いております。これもまた友吉に劣らぬ不景気な年増ですが、二人とも健康そうで、貧乏にも|めげ《ヽヽ》ない、共稼ぎのほがらかさはあります。  八五郎がなにやら囁くと、友吉はあわてて鉢巻を取りピョコリお辞儀をしました。 「銭形の親分さんだそうで、——へ、へエ、どんな御用で」  友吉は臆病《おくびょう》らしく訊きました。 「上総屋のお栄が死んだことは知ってるだろうな」 「ヘエ、ヘエ」 「あの晩お前は商売に出なかったのか」 「風邪《かぜ》を引いて休んでしまいました。ちょうどあの日から、七日、八日になりましょうか、葛根湯《かっこんとう》くらいじゃなかなか利きません、ヘエ」 「ところで、お前は、お品親娘をよく知ってるだろうな」 「ヘエ、亡くなったあの娘たちの父親と、親しく往き来をしておりました。良い人達ですが、あのとおりの不運で」  友吉の顔——少しのんびりした、江戸っ児らしい顔が、ちょっと曇りました。 「ところで、お前の道具をちょっと見せてもらいたいが」 「ヘエ、ヘエ」  友吉は身を開いて、平次の前に、担《かつ》ぎ荷の屋台を見せました。貧しくはあるが、よく磨《みが》いた屋台で、いかにも清潔そうなのが日頃のたしなみを思わせます。 「この鍋は?」 「古いのがひどくなったので、二三日前に新しく買いました」 「風邪を引いて寝ていたはずだが——」 「商売のことはまた別ですから」 「この鍋に蕎麦を入れて、二階から下げた紐《ひも》で吊り上げさせるのだな」 「よく御存じで」 「鍋を新しくするなら、紐も新しくした方が良いよ」 「ヘエ」  蕎麦屋の友吉が変な顔をするのを後ろに、平次は外に出ました。何が何やらわけもわからず、八五郎はその後から跟いて行きます。  早船の三次は友達の家の居候でしたが、仕事のことで十日前から房州へ行ったとやらで、騒ぎの前から留守。たぶん、今日当りは戻って来ることでしょう、という、家主のお神さんの言葉を聴いて、平次と八五郎は神田明神下に帰りました。     六  それから二日、八五郎は品川あたりをウロウロしていましたが、ときどきは明神下の平次のところへ報告を持ってくるのです。 「いい塩梅でしたね、親分。上総屋もあれっきり諦めてしまって、なんにも言わないばかりでなく、昨日は向うからアベコベに香奠《こうでん》を持って来たそうですよ」 「そうか」  平次はそれをいいことだとも、悪いことだとも言いませんでした。 「でも、良いことをしましたよ。あの母親のお品は毎日神田の方を拝んでいますよ。お浜っ子は、そんな中に、何を考えたか、妙に沈んで、あっしの顔を見ても口をききません」 「気の毒だな」  平次は意味のわからぬことを言うのです。  八五郎の『大変』が飛び込んで来たのは、その翌《あく》る日でした。 「親分、大変なことになりましたよ」 「どうしたんだ?」 「昨夜《ゆうべ》、あの妹娘のお浜っこが、敵討《かたきうち》に出かけたんですって」 「何? 敵討?」 「まだ宵《よい》のうちでしたが、母親に妙なことを言って出かけたと思ったら、早船の三次の家へ飛び込んで——あの男は二三日前江戸に還《かえ》って、相変わらず、町内中をうるさがらせていますが、少し酔って管《くだ》を巻いているところへ飛び込み、——姉の敵、覚えたか——と、あの喧嘩の名人の大の男へ打ってかかり、少し怪我をさしたんだそうで。恐ろしく気の勝った娘ですね」 「……」  平次はなんにも言わずに顔をあげました。 「もっとも押えてみると、お浜の手には剃刀《かみそり》を持っていたんだそうで、剃刀で人を殺せる気が子供じゃありませんか」 「それからどうした」 「お浜は幸吉親分のところに預け、母親のお品は、蕎麦屋の友吉夫婦に頼んで来ましたが、——なんとかしてやって下さいよ親分。考えてみると、お浜も乱暴だが、可哀そうですよ。大事の姉をあの男に殺されたと思い込んだんでしょう」 「行こう、八、困ったことになったよ」 「ヘエ?」  平次は支度もそこそこに八五郎と一緒に品川へ飛びました。神田からは容易の道ではありませんが、その頃の人は、馬にも車にも及ばず、思い立てばどこへでも自分の足で飛ぶのです。  平次は袖ヶ浦の幸吉に渡りをつけ、お浜をもらい下げ、漁師町のお品の家に還りました。 「おっ母さん」  お浜は家の中に飛び込むと、十年目でめぐり逢ったように、母親の枕にしがみつくのです。 「まア、お前はどうしたのだえ、姉の敵なんて、女の子の癖《くせ》に、——お前にもしものことがあったら、私はどうするのだえ」  母親はクドクドと言いますが、お浜はそれにも返事もせず、ただひた泣きに泣くのです。おそらく姉を殺されたと思い込んで、前後の分別《ふんべつ》もなく、剃刀をつかんで、近所の早船の三次の家に飛び込んだのでしょう。 「まア、いい、——こいつは私が悪かったのだよ」  平次は妙なことを言って母娘を宥《なだ》めました。 「親分が悪いはずはないじゃありませんか」 「まア、こうなれば皆んな話すほかはあるまい——八、外を見てくれ、誰もきいてはいまいな」  平次の仔細《しさい》あり気な調子に釣られて、八五郎は入口から、外を眺めました。  もう酉刻半《むつはん》(七時)過ぎ、四方は真っ暗で、秋の宵は海を受けたこの辺では、薄寒くさえあります。 「ちょうどいい、蕎麦屋の友吉さんも聴いてくれ。いや、立会ってもらいたい」 「ヘエ?」  友吉は土壇場《どたんば》に引き据えられたように、恐る恐る首を垂れました。 「先ず、早船の三次は、十日前にたしかに房州へ行った。こいつは間違いもないことだ。江戸へ戻ったのはツイ三日前、——房州まで人をやって調べた、これは間違いはない。——早船の三次は房州にいたとすると、お栄を殺したのは、ほかの者だ」 「……」 「さいしょから話そう、お栄はつくづく死にたかった。母親の病気も見舞うことができず、借金は嵩《かさ》むばかり、勤めは骨身にこたえて辛《つら》かった」 「可哀そうに」  母親のお品はまたも涙にひたります。 「思いきって、窓の上の長押《なげし》に扱帯《しごき》を掛けた。踏台のないのは、自害と思わせたくないためで、首に扱帯を巻いて、窓際の敷居から飛び降りた。こうすれば踏台はなくとも首が縊《つ》れるが、緋縮緬《ひぢりめん》は地が弱っていたし、お栄は身体が華奢《きゃしゃ》でも、敷居から飛び降りると重みがかかるからエライ力で扱帯は引かれ、切れてしまった」 「……」 「お栄はそれを諦めて予《かね》て用意した匕首《あいくち》で喉を突いた。窓際だから、鞘《さや》と匕首を窓から捨てるつもりだったが、同じ死ぬなら、死んだ後で親許に迷惑のかからぬよう、殺しと見せたかった」 「……」 「いい具合に、その時、朋輩《ほうばい》の女達がよく路地の蕎麦屋の荷から吊り上げる、鍋がスルスルと上って来たに違いない。いつもならその鍋に十六文の鳥目《ちょうもく》を入れて、一杯の蕎麦を吊り上げるのだが、匕首と鞘のやり場に困ったお栄は、その鍋の中に、銭《ぜに》の変わりに自分の喉を突いて、ひどい血だらけになった匕首と鞘を入れた。路地にいる友吉はそれとも知らずに鍋を引きおろして、胆《きも》をつぶしたに違いない。——が、窓の上にいるのは、先代から知っている、お栄と判ってる。友吉は鍋を受取ると、その紐を欄干《らんかん》から引きおろし、そのまま家へ持って帰った」 「……」  夜鷹蕎麦の友吉は黙って首を引っ込めました。まさに、平次の推論を全面的に肯定《こうてい》した顔です。 「友吉が、お栄を庇《かば》ったのも無理はない。帰ってくると、鍋は血だらけだ。気味が悪いから、鍋は新しくしたが紐まで代えることに気がつかなかった。 「……」  一座はシーンとしました。 「上総屋の羽目についた血は匕首がさわったためだ、——松の皮の剥《は》げたのは、友吉のせいではない。俺はとんだことをしてしまったよ、——友吉がお栄を庇《かば》ったのとはわけが違う。俺は町方ではあるが、お上の御用を勤める人間だ」 「俺はこんなこをしてはいけなかったのだ、——なんにも言わずに、明日は十手捕縄をお返ししよう」  平次は思い定めた様子で、このときはじめて胸を開くのです。 「親分、そんなことをしなくたって、——親分は」 「もういい、御用聞が法を破ってはいけない。今夜は一つお前と別れの盃《さかずき》を交《かわ》そうか」  平次はそう言いおわると、八五郎に目配せして、静かに立上がるのです。 「親分さん」  お浜はその袖にすがりましたが、床の上の母親には、声もなく泣いております。     *  平次はその時の言葉どおり、笹野新三郎に十手捕縄を返上しましたが、それは、どんなに言葉を添えても取上げられず、改めて笹野新三郎から返されました。お栄の死はそれっきり、下手人も挙がらず、自害とも殺しともなくうやむやになってしまいました。  敵討設計書     一 「親分、近頃は一向面白いことはありませんね」  八五郎はこんなことを言いながら、庭口からヌッと顔を出すのです。  素袷《すあわせ》の懐手、長んがい顎《あご》を撫でながら、——どうも良い恰好ではありません。 「何を言やがる、見世物小屋じゃねえよ。覗《のぞ》いても構わねえようなものだが、せめて世間並に挨拶をしろ」 「ヘエ、お早ようございます」 「呆《あき》れた野郎だ」 「ところでなんか面白いことがありますか。こう胸のすくような」 「だからよ、見世物小屋じゃねえと言ってるのだよ。覗いたって胸なんか透かないよ、溜飲《りゅういん》の禁呪《まじない》じゃあるめえし」 「でも、銭形の親分ともあろう人が、手紙かなんか見詰めて、難しい顔をしていると、天下泰平の図じゃありませんよ」  なるほどそう言えば銭形平次は、縁側に半紙一枚ほどの手紙らしいものを伸べて、深刻な顔をしてモノを考えているのです。  真夏の南陽は雨落ちに落ちて、ギラギラする割に暑くはありませんが、お長屋は隣の軒が近いから、これは謀反《むほん》の連判状や、人に見られたくない恋文や何かでないことは明らかですが、飛耳張目《ひじちょうもく》の八五郎の好奇心をそそらずにおきません。 「面白いか面白くないか、俺にもまだ見当が付かないのだよ。これを見てくれ」  平次はポーズをほぐすと、煙管《きせる》でひょいと紙片を押しやるのです。そこにはもう八五郎の顎がうさんな角度で待っていることは言うまでもありません。 「なんです? こいつは野郎の手紙じゃありませんか」 「おんな文字かなにかでなきゃ、面白くないというのか」 「それほどでもありませんがね」  八五郎は鼻を持って行きました。——眼と言わないところが綾で。 「いくら嗅《か》いだって、こいつはこちとらに読めませんよ。日本の字は幾つも交《ま》じっていねえ」 「お前に言わせると、日本の字は仮名ばかりだ。いいか、なんの変哲もないただの半紙に、達者な唐様《からよう》の字でこう書いてある、——二人目の敵《かたき》は、樹に懸《か》くべしとね。これはどういうわけだ」 「ヘエ? 妙な文句ですね」 「節をつけたって、鼻唄にはならないよ。お前今朝あたりなにか変わったことを聴き込まなかったか」 「この二三日なんにも聴きませんね。伯母さんが疝気《せんき》で困ってるという愚痴《ぐち》はさんざん聴かされましたが」 「伯母さんのは寸白《すばこ》だよ」 「そうそう、いずれにしても色気のある病気じゃありませんね」 「無駄が多いな、お前の話しは」  二人の掛合いが、こうして熱とスピードを加えた頃でした。 「あの、お前さん、お客様ですよ」  女房のお静がお勝手から声をかけるのです。  姉さん冠りを取って、片襷《かただすき》をはずして、八五郎の前にもたしなみを失わない、いつまでも若々しい女房振りです。 「お勝手からお客さまを通す奴があるものか」  人のけはいを感じて平次は居住まいを直します。 「あれ、私ですよ。銭形の兄さん、御免下さい」 「おや、石原のお品さんか、表へ廻ればいいのに」  それは石原の利助の娘で、出戻りではあるが、まだ充分に若くて美しいお品でした。 「大玄関には酒屋の白犬《しろ》がいっぱいになって鼾《いびき》を掻いていますよ。この俺でさえ除《よ》けたくらいで」  八五郎が横から注《ちゅう》を入れます。 「ま、構わないで下さい。朝っぱらから伺ったのは、少し厄介なことがあって、兄さんの知恵を拝借に来たんですから」  二つ折りにした座布団を抱きしめるように持って来るお静を押えて、お品は少し汗ばんだ青白い額をあげるのです。 「厄介なこと——というと」 「これを見てください、——そして、両国橋の少し上手に、昨夜不思議な首縊《くびくく》りがあったんです」  と言いながら、お品が懐中から出して、ざっと皺《しわ》を伸ばしたのは、——二人目の敵云々と書いた、平次が今しがたまで読んでいた手紙とまったく同じ文句、同じ紙、そして同じ筆跡だったのです。 「おや、同じものがここにもあるんだ。どうしてこんなものを、お品さんは」 「昨夜、表の格子から、この手紙を投り込んだものがあるんです」 「フーム、その野郎が、俺の家へも投り込んでいったよ」 「それだけならただの悪戯《いたずら》だと思って、あまり気にせずにいたんですが、これが格子からの投げ文の二つ目で、その度毎に、人が一人ずつ死んでいるではありませんか」 「二人目というと、前にもこんなことがあったのか」 「十日ほど前でした。その時はやはり格子からこれが投げ込んであったんです」  お品はもう一枚の手紙を取出すと、前のと並べて、丁寧に皺を伸ばすのです。何遍か読んだに違いない無気味な文句ですが、それもたいして気にしないほど、お品はこう言った事務に馴《な》れていたのです。  手紙はこう書いてありました。  ——不倶戴天《ふぐたいてん》の仇は水に沈む——  その文字は撥剌《はつらつ》として、なんとなく呪わしい活気に満ちているではありませんか。     二 「なるほど悪戯にしては念入りだな」  平次は心からそう思ったのではなく、お品の緊張した表情や気持をほぐしてやるように、お座なりを言うのです。 「いえ、お兄さん、悪戯なんかじゃありません。私もさいしょは悪戯と思いこんで、油断をしていたばかりに、二度目には、石原の子分達や私では埒《らち》があかないとみて、銭形の兄さんのところへも、同じ文句の手紙を投げ込んだのでしょう。だってさいしょの時は、この手紙と、緑町の曲尺屋《かねや》のお舟さんの死んだのと、少しも係《かかわ》りのないことと思って、うっかり調べる気もしなかったんですもの」 「待ってくれ、いろいろむずかしい経緯《いきさつ》がありそうじゃないか。ともかく最初から順序を立てて、詳しく話してくれ」  そう言う平次は、かなり興味を惹《ひ》かれた様子です。お静はそっとお茶の茶碗を滑らせて、お勝手に引っ込み、八五郎は猟犬のように小鼻をふくらませて、神妙に顎を撫でております。 「このさいしょの手紙が投り込まれた翌る日の朝、緑町三丁目の曲尺屋《かねや》の宇多重親分のお神さんが、裏の井戸に落ちて死んだという騒ぎがありました」 「曲尺屋の宇多重は評判のよくねえ人だが」 「もとは叩き大工だそうですが、曲尺屋の身上《しんしょう》を嗣《つ》いで、力がある上に身上が出来て顔がよくなり、喧嘩口論、出入り事の尻押しと、人困らせの事ばかり企《たく》らんでいる、たいへんな顔役ですよ。そのお神さんのお舟というのは、鬼の女房の鬼神で、亭主の上を行く厄介な女ですが、その女が、亭主の留守に近所を一円に鳴らして歩く金棒曳《かなぼうひき》の油売りで、少しは酔ってもいたのでしょう、自分の家の井戸に落ちて死んでいたのです」 「フーム」 「でも、手紙と曲尺屋のお神さんと、なんの係《かかわ》りもないことと思っていると、この二度目の手紙でしょう」 「?」 「少し変だと思って気をつけていると、今朝になって、両国橋の上手、河岸の柳に、人もあろうに、曲尺屋宇多重の弟のこれも兄に劣らぬ厄介者の、押借強請《おしがりゆすり》、いかさま博奕《ばくち》を渡世にしている、馬五郎が首を吊って死んでいるではありませんか。本名は今五郎というのだけれど、顔が長くて鼻息が荒いから、みんなは馬五郎といいます」 「で?」  平次は批評を加えずに先を促しました。 「その死に様が容易じゃありません」 「?」 「ほんとうに、白痴《こけ》の知恵と言うものでしょう。大事のことを後で気がつくんです」  お品は自烈度《じれった》そうに続けるのです。 「お舟さんの検屍にも、若い者に立会わせましたが、井戸に墜《お》ち込んで死んだお舟さんの首に、財布の紐が巻き付いていて、縊《くび》れるほど締めてあったというじゃありませんか。女だてらにお舟さんは、男のように大きな財布を首に下げて、それを帯に挟んで歩く癖があったんです。その上、あの辺の井戸は井戸とも言えないほど浅いのに、滑り込んだはずみで井戸端の井桁《いげた》が抜けて落ちたか、お舟さんは頭を割られて死んでいたそうです」 「そう聴けば変なことばかりだ、弟の馬五郎の方は?」 「これはなお変なんです。私が申し上げるより、兄さんの眼で、確《しか》と見定めて下さいませんか。仏様は取りおろしたけれど、柳も綱もそのままにしてありますから」 「なるほど、それは見なきゃわかるまい。八も行くか」  平次はお静に目配せをしながら八五郎に声を掛けました。 「ヘエ、もう先刻《さっき》から草履《ぞうり》を突っかけて待ってますよ。仕事は面白くなりそうじゃありませんか」  八五郎はすっかり張りきって庭へ飛び降りるのです。     三  両国とひと口に言っても、曲尺屋《かねや》馬五郎の死骸のあった場所は、橋の上手の横網町の河岸でした。詳しく言えば藤堂和泉守様と津軽越中守様の下屋敷の前、隅田川を行く船待ち顔に大きな柳が二本、その一本の柳に細引きがブラリとブラ下がって、柳の下には、老若男女、江戸名所図会から抜け出したような恰好《かっこう》で集まっているのです。 「おや、銭形の親分、八|兄哥《あにい》も一緒か、御苦労様で」  石原の子分達が、遠くからお品を見つけて迎えてくれます。  一時は本所深川を押えた利助親分が中風で寝込んでからは、その縄張りを護り抜いて、大勢の子分達を養い、江戸の一角の静謐《せいひつ》を背負って立つために、女だてらに十手まで持ったお品、一時は江戸ッ児の好奇の眼を見張らせましたが、近頃は馴れっこになって、自分でもたいして不思議に思わず、世間様も、好意に充ちた目で見てくれるようになって、どうやら、次々と起こる難事件も、大過なく処理して行けるようになっていたのです。  でも、こんなことをさせるにしては、お品は綺麗すぎ利巧すぎ、そして気が弱すぎました。縄張り内に厄介なことが起こると、ツイ心やすだてと平次の家へ飛んで行って、知恵も力も借りることに馴れていたのです。 「銭形の兄さん、これがただの首縊《くびくくり》でしょうか。見て下さいな」  子分達に弥次馬を掻きわけさせて、お品は先に立ちました。柳の下には、荒筵《あらむしろ》を掛けたまま、まだ馬五郎の死骸が転がしてあり、頭の上には柳の枝に掛けた細引が、無意味な線を描いて、ダラリとぶら下がっているのです。 「この一方の端が、水の中に落ちてるようだが」  平次は先ず、柳に掛けた細引の一端が、ピンと張って水の中に落ちてることに気がついたのです。 「その細引の端っこに、二十貫もある石が縛ってありますよ」 「あ、なるほど」  岸に立って水中を透《す》かしてみると、細引の一端に縛った、巨大な石——それは石垣から脱き出したであろうと思われるのが、十文字に縛ってあるではありませんか。 「これは、どういうわけでしょう、お兄さん」  お品は途方に暮れた額に小手をかざして、無気味な縄尻を見上げるのです。 「細引が柳の枝に掛って、一方には馬五郎がブラ下がって居たのだな」 「……」  お品は黙ってうなずきました。若い女の神経がかなり脅《おびや》かされる様子ですが、必死と我慢をして、このふしぎな死の一|齣《こま》に対して居るのでしょう。 「足は大地から五尺も離れていた」 「そのとおりですよ、まったく宙吊《ちゅうづ》りになっておりました」 「踏台もなかった、——とお品さん、厄介なことになるぜ、これは」 「それは、——どういうことでしょう」 「間違いもなく殺しだ、——あのとおり柳の枝は摺《す》り剥《む》けているところをみると、曲者は岸の上で馬五郎の首に細引を巻き、その端を柳の枝に引っ掛けて、二十貫もある大石に縛り、川の中へ石を転がして落したのだ——石は石垣から脱けたのだから、岸の上から子供でも転がして落とせる。非力な者が剛力ものを殺す術《て》だ」  平次の観察は、鋭いメスのように、事件のからくりを解いて行くのです。 「でも、馬五郎が黙って首に細引を掛けられるでしょうか。この男は本所一番の暴れ者で、五人力とかあるんだと、平常は手をつけられないほど威張っておりましたが」 「大酒を呑まなかったか——昨夜は酔っていなかったか、それを訊きたいが——」  平次の問いを待ち構えたように、弥次馬の中から二三人の男が飛び出しました。 「銭形の親分、とんだお手数をかけて済まねえ。弟の野郎が、だらしもねえ姿になって」  それは五十を越した、太く逞《たく》ましい親仁《おやじ》でした。月代《さかやき》も鬚《ひげ》もよく剃《あた》っているのですが、妙に薄汚くて、隈《くま》を取ったようで、一大肉塊が、ポタポタと脂を垂れながら動くような感じがするのです。 「銭形の兄さん、曲尺屋《かねや》の親分ですよ」  お品はいちおう紹介しました。 「あ、宇多重親分か、とんだことだったね」  平次は卑下《ひげ》しない程度に、鷹揚に受けました。小弁慶の単衣《ひとえ》をはだけて、胸毛を風にそよがせながら、宇多重はそれを不足らしく受けながら、 「だから、俺はうるさく言ったんで。遊びも道楽もけっこうだが、深酒は呑むなとね。こんな世渡りをしていると、どこに首を狙《ねら》う奴がいるかもわからないし」 「すると、馬五郎親分には、敵が多かったわけだね」 「存分に暮していると、変な怨みを買うものだよ、弟はいったい癖の悪い酒で、飲み始めると一軒では済まず、それからそれと梯子をやって、夜が明けてから帰るということも時々はあったようだ」 「家は?」 「緑町の俺の家の裏だ。一つ家に住んでもいいわけだが、兄弟一緒じゃ我慢が出るから軒続きだが、別の家に住んでいるよ。独り者の気楽さだから、出入りを一々睨まれちゃ叶《かな》わないと、女房ももらわない野郎だ」  宇多重はそう言って、高々と頬の薮蚊《やぶか》を叩くのです。この時候になると、向島へかけて河岸は蚊の多いところです。  平次は黙ってしまいました。自分の哲学に陶酔《とうすい》して、その安値な世渡りに気のつかない人間は、はたから手のつけようはありません。  平次はそれから筵《むしろ》を被《かぶ》せた、馬五郎の死骸を調べました。これは兄の宇多重とは反対に、蒼黒く痩せた四十男で、病的な大酒家によくある、骨張った神経質らしい顔をしております。  身体にはなんの傷もありませんが、細引で吊るされた首は、不気味に伸びて、首にかけて懐ろにねじ込んだ財布《さいふ》もそのまま、中には小粒と小銭がザクザク入っているのも安やくざらしい不たしなみです。     四 「曲尺屋《かねや》の親分、ついでに緑町の家も見せてもらいますよ」  平次は八五郎とお品に目配せをして、緑町三丁目の曲尺屋宇多重の家に向いました。  曲尺屋宇多重——ずいぶん不思議な名前ですが、本当は金屋宇多六というので、柄にもなく音曲《おんきょく》に凝《こ》って、宇多重と呼ばせ、曲尺屋は大工であった前身を忘れないためと、殊勝なことを言ってつけた屋号です。  構えはなかなかに広く、かつては金屋の先代、棟梁《とうりょう》の金屋京極が建て、江戸の番匠として幅をきかせましたが、先年京極が死んで、この屋敷が売りに出たのを、弟分の宇多重が譲り受けて、腕っ節の強さと、金力とで親分面をしております。  馬五郎の家は、その隣で、なかなかの構えですが、さんざん荒らし抜いて、眼も当てられません。 「このとおりだ、小言をいう張合いもない野郎だったが、それでも兄弟となれば、人に殺されて左様でございますかと済ましてはいられない。どんなことをしても、この敵は討って下さいよ。銭形の親分、そう言っちゃ変だが、金で埒《らち》があくことなら、糸目はつけねえつもりだが」 「……」  平次は顔を反《そむ》けてズイと外へ出ました。一番嫌なことを言われたのです。何ごとも金ずくで埒をあけようとする人間は、この世の中で、一番始末の悪い人間だということを、金の誘惑の多い平次は身に沁みて心得ているのです。 「親分、いつものとおり、近所の噂《うわさ》を集めてみましたが、あっしが骨を折るまでもなく、お品さんと石原の子分衆は皆な知っていますよ」  八五郎は折を見て、こう囁きます。 「よし、母屋《おもや》へ行って、家中の者に逢って、それからお神さんの死んだ井戸端へ行こう。お前は先廻りをしてそこで待ってくれ」 「ヘエ、——ともかく、大変な家ですよ」  八五郎は言い残して向うへ飛んでしまいました。曲尺屋の母屋というのは、江戸の大棟梁《だいとうりょう》金屋京極の設計だけに、たいした豪勢さでした。平次は主人の宇多重に引きまわされて、自慢たらたらそれを見せられた揚句、平次の頼みで、いちおう家中の者に逢いました。  手代とも子分ともつかぬ若いのが二人、由松《よしまつ》というのは二十七八、小肥りの色白で、洒落者《しゃれもの》らしいが決して好い男ではなく、世辞のうるさい、小才のききそうな男、もう一人は与三郎といって二十四五、華奢《きゃしゃ》でのっぽで、無口ですが、これは由松よりは男もよく知恵もありそうです。  ほかに、京之助という掛人《かかりうど》がありました。まだ子供らしさの抜けない、ひ弱そうな男で、女の子のようにボーッと頬の紅潮した様子が気になります。これは先代のこの家の主人棟梁金屋京極の忘れ形見で、 「世間ではなんとか申しますが、私は先代の恩を忘れないために、この子を引取って世話をしております。世間の口には戸は立てられませんが、この子はこの家が住み心地が良いようで、どこへ行くのも勝手なのに、喜んでこの家に住んでおります。もっとも身体が弱くて、どこへ行っても独り立ちの出来る子ではありませんが——」  宇多重は京之助を前において、ヌケヌケとこんなことを言うのです。  ほかにもう一人、お松という下女がおりました。十六か七でしょう、もう発育しきった身体と、無口ではあるが、取りまわしのハキハキした、好感の持てる小娘で、これは宇多重の紹介に漏《も》れたのを、平次がお勝手から見つけて来たのです。  肝《きも》をつぶすために用意したような豪勢な調度、ケバケバしい飾りの数々、途方もなく豪勢な仏間、——信心をひけらかす不信人ものによくある、金に飽《あ》かした仏具仏像、すべてがこういった調子で、いい加減うんざりして外へ出た平次は、ここに巣喰う恐ろしい殺人鬼のことを考えて、大きく溜息をつきました。 「親分、こりゃ化物屋敷ですぜ」  八五郎が井戸端から小手招ぐのです。 「尋常じゃないよ、近所ではなんと言っている」  平次は井桁に手をかけて、浅い井戸を覗きました。場所柄だけに、二間とはない水肌まで、石垣が少し崩《くず》れて雪の下が密生した様子は、深さとは別に気味が悪く、足許の不安全さに平次も少し飛び退いたほどです。 「あの宇多重は恐ろしい道楽者で、夫婦喧嘩が絶えなかったそうですよ。お神さんが死んだのを良いことに、初七日も経たないうちから、乗込もうと犇《ひし》めく妾《めかけ》が三人。いやもう」  八五郎は顎を撫でるのです。 「弟の馬五郎の方は」 「これも大変で、女房も子もないのを倖せに、放埓《ほうらつ》の限りを尽くし、さすがの宇多重も持て余したそうです。それに、金費いが荒くて、まるで湯水のようだから、金の実る木があっても追っ付くまいと言われたそうで」 「お神さんをひどく怨《うら》んでる者はなかったのか」 「怨んでる者は数知れないが、持て余しているのは亭主の宇多重ですよ。半気違いで大酒呑みで、大焼餅で」 「念入りだな」 「わけても、先代の金屋京極の忘れ形見、京之助という子がいるでしょう」 「あれだけは家中で一番人間らしいよ」 「可哀想に身体が弱い上に、お神さんのお舟にいじめ抜かれて、見ちゃいられなかったそうですよ。お品さんに言わせると、先代の金屋京極の死んだのだって、腑《ふ》に落ちないことがあったそうで」 「フーム」 「外で大酒を呑んで歩いて、自分の家の井戸に墜《お》ちて死んだって、なんの不思議もありません」 「そのうえ、財布の紐《ひも》で首を絞められ、石垣の石で頭を割られていたというじゃないか」 「良い面の皮みたいなもので」 「なんと言う口をきくのだ。少し気をつけろ」 「ヘエ、相済みません」  八五郎はヒョイとお辞儀をしました、——そのはずです、平次の後ろには、主人の曲尺屋宇多重が苦りきって突っ立っているのです。 「ちょっと銭形の親分」 「……」 「あまり気を廻さないで下さいよ。女房のお舟は、噂のとおりの大酒呑《おおざけのみ》で、自分で井戸へ転げ落ちたに違いありません。財布の紐で首を絞められるかどうか、やってみてもらおう。あんな細い紐で人間一人殺せるわけはない。それに、井戸の石垣はこのとおりだ。人間が落ち込めばどこの石だって転げ落ちる」  宇多重の言うのもいちおうはもっともでした。財布の紐で大の女が殺せるはずもなく、転げ落ちた上から石を投げ込んで、頭を割るのもむずかしい技巧です。  井戸の側には、二三本の木を植えて、小さい祠《ほこら》がありました。赤い可愛らしい鳥居が立って、少し古くはなったが、狐格子《きつねごうし》もきゃしゃで細工《さいく》の良いのは、いずれもとは大工《だいく》であったにしても主人の宇多重の手ずさみらしくはありません。 「あのお稲荷様の中を拝んでも構いませんか」  平次はフト妙なことに気がつきました。 「さアさアどうぞ、あれは先代の金屋京極の造営したものですが」  そう言う宇多重は、先代の京極の細工上手を誇る気持では人に遅れをとらなかったのです。  江戸の名物は『伊勢屋稲荷に犬の糞《くそ》』と言われた頃で、町々屋敷屋敷に勧進《かんじん》された稲荷の数々は、幾十百あったかわかりません。江戸時代の江戸の絵図面を見ると、自身番の数と稲荷様の数はほとんど競争の有様で、一々は数えきれませんが、不思議なことに、本所のこの辺には稲荷の社《やしろ》は見られません。  それはともかく、その狐格子を得々として開けて見せる主人の宇多重には、妙に自信らしいもののあるのを、平次は、自分の師匠を自慢する工人らしい誇りと見たのも無理のないことでした。  祠の中は一間四方ほど、素木《しらき》の祭壇の上には時の野菜の種々《くさぐさ》のほかに、お稲荷様らしく、うず高く油揚げを盛ってあるのが気になります。 「たいそうな御信心のようで——」  平次はお座なりらしく言いました。極道者の信心事で、この主人の生活には妙にチグハグなものがあったのです。 「いや、ここへ繁々来るのは、京之助ですよ」 「……」 「あの子は身体が弱いからなにかに頼りたい気持でしょう。それに自分の親の造ったお稲荷様ですから」 「ところで御主人」  平次はちょっと改まりました。 「何か?」 「この手紙にお心当たりはありませんか」  そう言って平次は、懐ろから例の手紙、——曲者の挑戦状らしいのを出して、稲荷様の床の上に伸べました。 「さア」  宇多重はちょっと見ると、眉を顰《ひそ》めます。 「これはあっしの家の格子から投げ入れたものだが、まだあります。石原の親分のところへも投げ込んだのを」  平次が手を伸べると、少し離れて聴いていたお品は、心得て二通りの手紙を差し出しました。一つは同じ文句、一つはお舟が殺されたときの挑戦状です。 「俺には少しもわからないが——」  宇多重の眉はますます顰むばかりです。 「それじゃ、この三本の手紙に、油汚染《あぶらじ》みのあるのはわかるでしょうな」  平次は三通手紙を並べて、そう言えば油汚染とも見える汚れを指しました。 「……」 「ここへ来るまで、気がつかなかったが、その手紙は一度この祠の中にあったに違いない。人に隠すためだったか、それとも、祈願のようなものを籠《こ》めるためだったか」  平次はそう言いながら、祭壇の下のあたり、幕で囲ったところにそっと手を入れました。  そして人々の驚きの眼の前に静かに取り出したのは、白木の三方が一つ、その上には巻いた小奉書と幾つかの手紙が載っており、上から垂れる油汚染を受けて、手紙の端がところどころ汚れているのも、格子から投げ込んだ手紙と符《ふ》を合せます。 「これだ」  さいしょに書いた小奉書には、かなりの達筆で、  敵討次第の事     一 不倶戴天の仇は水に沈む     二 二人目の敵は木に懸くべし     三 最後の巨敵は刃をもって貫《つらぬ》く     四 不義の屋《おく》は神火をもって焼く     五 かくして悪行|悉《ことごと》く大地に帰す  こう書いてあるではありませんか。     五 「驚いたね、これは?」  黙りこくった中で、一番先に奇声をあげたのは八五郎でした。  平次はそれに構わず、残る手紙を開いて行くと、小奉書の五ヵ条の文句を一々写し取ったもので、それは多分、平次やお品の家の格子に投り込むために写し取ったものでしょう。 「宇多重親分、これに心当りは?」  平次は黙って待ちました。主人の宇多重は、幾度か唇を嘗《な》めて、心持|大袈裟《おおげさ》すぎるほど眼を白黒させておりましたが、 「驚きましたな、銭形の親分。私には何が何やら少しも合点が行かない」  そう言うのが精いっぱいです。 「だんだんわかって行くじゃありませんか。先ず第一にこの小奉書と手紙の字は誰が書いたものです。心当りはないはずはないと思うが」 「それはわかっております。——先代の金屋京極の手に間違いもありません、——京極は京の番匠の子で、学もあり字も読め、固い文字も良く書きました」 「だが死んだ者はこんな願書を書くはずはない、——それに不倶戴天とはおかしな言葉だ。親の敵《かたき》でもなければ、そんな言葉は使わない」 「大工も棟梁《とうりょう》と言われる人は、ひと通り字を書きますが、この字は間違いもなく先代の京極の手を真似たもので」 「それは?」 「申しにくいが、京極の子の京之助のほかに、こんなことを書く者はありません。京之助は賢《かしこ》い子で、物の本も読み、字もよく書き、親の京極の字をそっくり真似て書きます」 「八」 「ヘエ」  平次がこう言っただけで、八五郎は心得て飛んで行きました。主人の宇多重は少なからず心を動かした様子ですが、それを引留めもならず、次の発展を待っております。 「さア、来やがれ。なに歩けねえ、そんなことがあるものか、人を二人も殺す野郎が歩けねえことがあるもんか」  八五郎は調子づいて少年一人を追いながら来るのです。それは先代金屋京極の忘れ形見という、京之助に違いありませんが、八五郎の達者なのに比べて、これは少し弱々しく跛足《びっこ》さえ引いております。 「八、そんなに荒っぽく引立てちゃいけねえ」 「だって親分」 「まア、いい。お前は、京之助とかいったね」 「はい」 「どこか身体でも悪いのか」 「癆《ろう》症だとか、痺病《しびれ》だとかいわれますが、別に悪いところはございません。ただひ弱いだけで」  女の子のような美少年京之助は、見るからに哀れな姿です。 「さっそく訊くが、これは誰の書いたものだ」  平次は稲荷の祭壇下から取り出した願文と手紙を見せました。 「あっ、こんなものをどうして」 「いいわけがあるなら聴きたい」 「その願文は、私の書いたものに相違ございません」 「願文だけでたくさんなはずだが、手紙はどういうわけだ」 「私は口惜《くや》しゅうございます、親分」  京之助は祠《ほこら》の前にヘタヘタと坐ると、顔を挙げてハッキリこう言いきるのです。 「わけを聴こう。人二人殺した疑いがお前に懸かっているのだ」 「いえ、私は人なんか殺しません。この身体で人なんか殺せるものか殺せないものか、親分さんがわからないはずはありません」  貝殻《かいがら》のように薄い耳、曲がった背筋、蒼白さも痛々しく、虫一匹殺せるすがたではなかったのです。 「では、この願文のことを詳しく話してみるがいい」  平次は静かに問い進みました。八五郎もお品も、少し離れて宇多重も固唾《かたず》を呑みます。 「私の父親の京極は五年前に亡くなりましたが、生きているうちから、家も金も、土地も株も、弟子の宇多重に奪い取られ、弟の馬五郎と女房のお舟と三人|共謀《ぐる》になって、父親と私を牛馬のように扱いました。その果てに父京極は、わけもわからずに死にましたが、誰が見ても毒死で、末期《まつご》の際にそっと私を呼んで、この敵はきっと討ってくれと申し遺《のこ》しました」 「……」 「でも、私はこのとおりの身体で、敵討ちどころか、身一つの凌《しの》ぎもつきません。歯を喰いしばってこの家に踏み留まり、亡くなった父親の余禄で今日まで生い立ちました。宇多重は私の養い親のように申しますが、私は少しの恩も蒙《こうむ》ったわけではございません。幸い誰もとがめ立てをしないので、私は学問に励んで月日を過ごして参りましたが、宇多重夫婦に馬五郎の悪魔がますます募るのを見兼ね、何度も懲《こ》らしめてやりたいと思いながら、それも自由にならない口惜しさ、せめて三人の敵を討ち取る次第書きを、願文にしたためて父親の精魂尽くして造ったこの稲荷の祠に納め、朝夕祈願を籠めました。願文を木火土金水になぞらえたのは、私のつまらない道楽でした」 「それで願文はわかったが、幾本もある手紙は」 「それも写経《しゃきょう》のような気持で、毎日毎日、書きました。幾本かは焼いて呪《のろ》いを籠めましたが、そのうちの幾本かは盗まれた様子。そこまでは私もわかりません」 「で、人を殺した覚えはないというのか」 「夢にもそんな覚えはありません。力があって身体がきけば、許しておく人達ではないのですが」  そのとき、少し遠くから様子をみていた宇多重は、ニヤニヤしながら近づいて来ました。 「銭形の親分、妙なことになりましたな。本人があんな事を言っているが、馬五郎とお舟が人に殺されたに違いないとすれば、なんにも言うことはないでしょうな」  そう言う宇多重は、ひどく得意そうでもあります。     六  平次は八五郎にもういちど目配せしました。本人の京之助がなんと言おうと、そこまで追いつめられると、京之助を見逃して引揚げるわけには行きません。 「待って下さいな、銭形の親分さん」  お勝手向うからチョロチョロ出て来たのは、あの可愛らしい下女のお松でした。 「なんだ、用事があるのか」  平次は足を淀《よど》めました。京之助を護って先に立った八五郎もキョトンとして立ち留ります。 「京之助さんは悪いことをする人ではありません。人殺しなんて、とんでもない」  お松は平次に取り縋《すが》りそうにして、間の悪そうに立ち留りました、泣き出しそうな顔です。 「それだけのことか」 「昨夜京之助さんは、どこへも出ません。私はよく知っております。お神さんが井戸で死んだ晩も、京之助さんは、与三郎さんと店二階に休んでいたはずです」 「すると、家中で、誰も外へ出たものはないというのか」 「いえ、親分と由松さんは、昨夜もこの前お神さんの亡くなった晩もいなかったはずです」 「?」 「由松さんも親分も三日に一度は家をあけますから、それだからどうということはありません。でも、銭形の親分」 「なんだ」 「お神さんの頭を割った石は、まだ井戸の中にあるはずです。あれは石垣から抜けた石ではなく、どこからか持って来た石です。苔《こけ》が付いてない三角石ですもの、誰が見たってわかります。京之助さんはあんな石を持てるはずはないじゃありませんか」 「……」 「まだありますよ。両国の馬五郎さんを柳の枝に釣った石だって、京之助さんが動かせるはずもありません。岸から転がせば、誰だって落とせるに違いないけれど、あの石に細引を掛けるのは、京之助さんに出来ることじゃない、——私も見ましたとも。あまりたいした騒ぎだから、与三郎さんに留守を頼んで、ちょっと覗《のぞ》いて来ました」 「……」 「これでも、京之助さんを縛らなきゃならないでしょうか、銭形の親分」  十六になったばかりの小娘、可愛らしくも賢そうでもあるお松が、一所懸命さに我を忘れて平次の袖に取りすがるのです。 「お松とかいったな、お前の言うことは一々もっともだが、物事には、順序もあり、手続きもあり、表もあれば裏もある」 「……」 「御奉行様始め、八丁堀の旦那方にも、決しておろそかはない。しばらく待つがいい」 「でも、親分」 「さアさア聴きわけのないことは言わないこと。涙を拭きなよ、外から皆んな見ているぜ」 「……」  お松は力及ばずと思ったか、それとも平次の言葉が身に沁みたか、首うな垂れてしずかに身を退きます。八五郎は京之助を促しました。そして、この情景を冷たく無関心に見ているのは宇多重です。  この平次の態度に、腹を立てたのは、下女のお松ばかりではなく、京之助を番所に送って、人調べに立ち合って、平次と一緒に明神下に引揚げた八五郎も、いい加減憤々としておりました。 「ねえ、親分、あっしは気にいりませんね。なんだって、京之助を縛らせたんです」  そう言いながら、さっぱり酔いの発しない猪口《ちょこ》をグイグイと重ねます。 「たいそうな御機嫌だな」  平次は一向に興奮する様子もありません。 「だって、曲者は京之助でないとわかっているようなものじゃありませんか」 「でも、あの妙な願文を書いたという手落ちはあるよ。こうするよりほかに術《て》はなかったのだよ。放って置くと、こんどは京之助の命が危ない。一晩や二晩番所におく分には命に別条はあるまい」 「そうでしょうか」  八五郎には気に入らないことばかりです。     七  その日の晩のことでした。平次の家に泊まり込んだ八五郎は、何やら肩のあたりに触《さわ》られてフト眼を覚ましました。 「親分」 「シーッ」  親分の銭形平次がそこに立っているのです。 「……」  八五郎がキョトンとしていると、平次は表のあたりをそっと指しました。  こんなことは、まことに良く心得た八五郎です。平次に表を任せて、八五郎はそっとお勝手から滑り出すと、狭い路地を泥棒猫のように表へ廻るのです。  時分を見て、平次はさっと表を開けました。バタバタと逃げて行く足音、それを路地の外で迎えたのは、申すまでもなくそこで待機していた八五郎です。 「御用ッ」  八五郎はこう言わないと大力が出ないのでしょう。バタリバタリと羽目に叩き付けられる音、しばらく揉み合っておりましたが、まもなく埒《らち》があいて、 「親分、灯《あか》り」  と、八五郎がわめくのです。  家の中からは、お静が手燭を持ち出しました。 「まア、八さん、可哀想に」  そう言われてみると、八五郎が必死とドブ板の上で押えていたのは、曲尺屋《かねや》の下女、あの京之助を庇《かば》ったお松の、あわれにも顫《ふる》えている姿だったのです。 「お松じゃないか、どうしたことだ」  そのお松は、明神下の平次の家へ、これを投り込みに来たのでしょう。手燭で探すと格子の内には、願文の第三『最後の巨敵は刃をもって貫《つらぬ》く』と書いた手紙だったのです。 「お前はどうかしたのではないか、お松」  平次も只ならぬ心持でした。 「私を縛って下さい、銭形の親分、私は縛られるつもりで来たんです」 「なんだと?」 「銭形の親分のなさり方を私は怨みました。下手人は京之助さんじゃないのに」 「下手人は京之助じゃないことは俺もよく知っている。でも、京之助を放っておくと、殺されるに違いない」 「すると親分は」 「馬五郎とお舟を殺したのは、馬五郎の兄でお舟の夫の宇多重だ」 「エッ、私もそうじゃあるまいかと思いました。イエ、それに違いないと思いました」 「京之助の書いた願文を見つけると、悪知恵の逞《たく》ましい宇多重は、あんな細工をして発《あば》き立て、京之助を二人殺しに仕立てようとした。非力なものの仕業らしく拵えたが、やっぱり強力なものでなきゃ、あんな細工はできない」 「済みません、親分さん。親分はそんなことまで見通しだったんですか。そうとは知らずに私は、私は」 「なんかやったのではないか、お前は」 「京之助さんの怨みを晴らそうと思って、私は主人に斬りかけました」 「えっ」 「主殺しは磔刑《はりつけ》ですが、でも私は、京之助さんと夫婦約束をしたんですもの。舅《しゅうと》の敵を討って悪いはずはない、——私は主人を殺して、すぐ銭形の親分の家へ駈け込むつもりでした」 「待て待て、外が騒がしいようだ。八、出てみてくれ」 「火事ですよ、親分。両国の方ですが」 「火事は両国」  路地の方に出てみると、弥次馬は東へ東へと飛んで、深夜の夏の空は、深々と更けております。     *  その夜の火事で緑町の曲尺屋《かねや》は焼けました。焼跡から、大の男の死体——多分宇多重であろうと思われるのが出ましたが、子分衆は遊びに出ておらず、火がどうして出たか、主人宇多重の死骸に傷があったかなかったか、その頃の検屍の暢気さで、詮索《せんさく》する人もなかったのです。  京之助は無事に許されて戻り、それを迎えてくれたのは平次と八五郎とお品と、そしてお松のいそいそとした姿だったことだけは記憶して下さい。  火事を起こしたのは主人とお松が争う弾《はず》みに行灯《あんどん》でも倒したのでしょうが、それが期せずして願文の第四を果たしたことになります。  地中の富     一 「ヘッ、ヘッ、ヘッ、親分」  ある朝、八五郎が箍《たが》の外《はず》れた桶《おけ》みたいに、笑いながら飛び込んできました。九月もやがて晦日《みそか》近く、菊に、紅葉に、江戸はまことに良い陽気です。 「挨拶も抜きに、人の家へ笑い込む奴《やつ》もねえものだ。少しは頬桁《ほおげた》の紐を引締めろよ、馬鹿馬鹿しい」  平次は精いっぱいに不機嫌な顔を見せながらも、実はこの二三日,八五郎を待ち構えていたのです。八が来てくれないと、良いニュースも入らず、平次の活動もきっかけがなくて、手につかないように、その心持は、連れそう恋女房のお静には、わかり過ぎるほど、よくわかっております。試《ため》しに、あの仏頂面を、ちょいと突いてやったら、顔の造作を崩して、笑い出すに違いありません。 「でも、こいつは、親分だって笑いますよ。あっしが三日も来なかったわけ、見当はつきますか、親分」 「いやにニヤニヤして、笑いの止まらないところをみると、新色《しんいろ》でも出来たか。——人の恋路を邪魔する気はねえが、お前のお膝もとの土手に陣を敷いてるのは止せよ。鼻を取払われたひにゃ、好い男の恰好が付かねえ」 「そんな、気障《きざ》な話じゃありませんよ。あっしはこの三日の間、金《かね》掘りに夢中だったんで」 「ハテね、江戸の真中で金掘りが始まったのかえ」 「親分は、あれを聴かなかったんで? 大膳坊覚方《だいぜんぼうかくほう》の話を」 「そんな坊主は知らねえな」 「ヘエ、呑気ですね。この辺も名題の神田御台所町で由緒《ゆいしょ》のあるところだ。大膳坊に頼んで観てもらっちゃどうです。相馬の御所から持ち運んで来た、平将門《たいらのまさかど》の軍用金が埋めてないとは限りませんぜ」 「脅《おど》かすなよ。——うんと金が出来て、岡っ引を止してしまったら、俺はこの世の中が退屈で、首を縊《くく》りたくなるかも知れない」 「ヘエ、そんなものですかね。——ともかくも近頃は麹町から、四谷、赤坂へかけて、金掘り騒ぎで大変ですよ。行ってみませんか」 「御免|蒙《こうむ》ろうよ。眼の毒だ」 「親分は欲がなさ過ぎる。——こう言うわけですよ」  その頃の江戸の地下には、何万両とも知れぬ硬貨——わけても、錆《さ》びも変質もしない、小判や小粒が埋まっているに違いないと言うことは、誰でも考えている、一つの常識だったのです。  封建時代——幕府の財政に信用がなく、銀行制度もない世の中で、裕福な町人達が一番閉口したのは夥《おびただ》しい通貨を財えておく場所でした。その頃の人達は、何より火事が恐ろしかったのと、兌換《だかん》制度があやふやだったために、地方には藩札《はんさつ》というものはあっても、庶民の間には強制的に流布させる外はなく、一歩藩の外へ出ると、その藩札という紙幣の通用はむずかしかったので、勢い貯蓄の目標は、硬貨によるほかはなかったわけです。  足利義政の乱脈な財政で、支那から鋳造銭《ちゅうぞうせん》を買い入れたり、秀吉の朝鮮征伐で、かなりの黄金を持ち出した上、その頃から盛んになった、長崎の貿易で、目に余るほどの金《きん》が外国に流出したことは事実ですが、それでも、当時の日本は、金の産出の豊富な国でした。金華山や、甲州や、伊豆や——関東以北だけでも大変な産金です。そのうえ、佐渡の金がドッと掘り出されたのですから、徳川初期の日本の富は大したもので、日光などという、とんでもない贅沢《ぜいたく》な建物が、ヒョイヒョイと出来たのもそのためです。  日本一の都、殷賑《いんしん》を極めた江戸の大町人達が、手もとに集まってくる黄金を、どこに隠して置いたか、考えてみてもわかることです。  戦国時代の後を承《う》けて、その頃の日本には、二三十万の浪人がいたと言われ、その半分や三分の一は江戸に住んでいたと見なければならず、仕官の出来るのは、そのまた何割で、多くの浪人達は、市井《しせい》に隠れて、芽の出るのを待ったのです。  その何割かは商人になり、何割かは橋の袂《たもと》に立ったり、町道場を開いたり、小内職をしたり、寺子屋を開きました。が、はなはだ正直でないもの、世渡りの道を知らないもの、道徳観念のお粗末なのは、『斬取り強盗は武士の慣い』と観じたのもやむを得ないことでした。  銀行制度もなく、投資機関もなく、そのくせ、うんと金の集まって来る大町人達は、これを瓶《かめ》に容れ、箱に納めて、大地の下深く匿《かく》したのはまことに当然な財産保護の方法だったのでしょう。江戸の通貨は相当のものであったにもかかわらず、今日まで残っている、その容器の千両箱や金箱というものが、非常に少ないのをみても、その間の消息はわかることと思います。  封建時代の通貨隠匿は、日本も外国も同じことで、欧羅巴《ヨーロッパ》の中世から十九世紀の頃までは、地下の埋蔵金を探し出す、いろいろの方法が考えられました。  占《うらな》い、禁呪《まじない》、呪文《じゅもん》、そんなもののほかに、ある種の魔法の杖を持って歩き、それが倒れた方角と角度と、顫動《せんどう》とで、地下の埋蔵金を見出す方法をさえ、一般に信じられた時代があったのでした。占者のようなのが、物々しい杖を持って歩くと、地下に金の埋まっているところでは、魔法の杖がそれに感応して、一種の運動を起こすと言われていたのです。     二  八五郎の話と言うのはこうでした。 「大膳坊覚方と言う修験者《しゅげんじゃ》が、江戸の地下には、量《はか》り知れないほどの宝が埋まっているに違いない。それを片っぱしから掘り出して、諸人に授けを与えようという大願をたて、山を下って江戸の町へ入られた」 「たいそうなことだな。それで、いくらか掘り出したのか」 「掘り出しましたよ。さいしょは江戸の町人達も、どうせ、山かん野郎のペテン師だろうと多寡《たか》をくくって、——お寺の墓を掘り返してみねえ、骸骨《がいこつ》と一緒に、間違いもなく六道銭は入っているよ。——などと笑っていたが、そう言うお前の家の土竃《へっつい》の下には、十五枚の小判が埋まっていると言われ、大膳坊立ち合いの上で掘ったのは、麹町六丁目の酒屋久兵衛だ」 「フーン」 「なんにも出なかったら、思う存分に殴って、大恥を掻かせてつまみ出す約束で掘らせましたが——」 「出たらどうするんだ」 「もし言ったとおりの金が出たら、三つ一つ、つまり、十五両出たら、五両は大膳坊に差し上げ、大膳坊はそれを、貧乏人への施《ほどこ》しにする約束で掘ると、土竃《へっつい》の下、床板を剥いで、一尺五寸ほどの深さの地中から、古い小さい梅干瓶《うめぼしがめ》が一つ出ましたよ。汚れた蓋《ふた》を払ってみると、中から現れたのは、吹き立てみたいな、山吹色の小判が十五枚、酒屋久兵衛胆をつぶして触れたからたまりません」 「……」 「山の手一円の評判になって、俺の家も見てくれ、こっちの土蔵も掘ってくれという騒ぎだ」 「お前はその金掘りに手伝っていたのか」 「大膳坊に手伝ったわけじゃありませんが、何しろたいした評判で、あっしも伯母さんに手伝わされましたよ」 「お前の伯母さんのところからも小判が出たのか」 「小判とまでは行かないが、金が出たことは確かで」 「それはたいしたことじゃないか」 「まア聴いて下さい。——金掘りは麹町から、四谷、赤坂と拡がって行きましたが、皆んなが皆んな、金を埋めてある家ばかりではなく、中にはいくら掘っても、なんにも出て来ないのもある、大膳坊は法力が広大だから、ちょっと見ただけでも、金を埋めてある家と、なんにもない家とわかります。金が埋めてあるとわかると、家中の者に沐浴斎戒《もくよくさいかい》させ、家の真中に祭壇をつくり、揉みに揉んで祈る。——すると、埋めた金があるものなら、三日のうちに埋めた場所までわかるというからたいしたものでしょう」 「本当ならたいしたものだが、眉に唾《つば》をこっそり付けて聴くことだな。世の中に儲かる話ほど怖いものはない」 「伯母さんが、それを聴いて来たからたまりませんよ。四谷のお常客様《とくいさま》から、冬支度の仕立物を頼まれて、泊りがけで縫っているうち、現に目の前で、大膳坊が土竃《へっつい》の下から、小粒と小判交ぜて二両三分と掘りだしたのを見て来て、私の家の土竃の下にも、きっとあんな瓶があるに違いない。この向柳原の家に三代も住んでいるが、死んだ亭主が持っていたはずの金が、死んでしまってから捜してみたが、どうしても一両二分ほど足りない——と言い出したんで」 「なるほどね」 「大膳坊を頼むと、金を掘り出しても三つ一つの二分は取られる。みすみす無駄をしたくないから、お前が掘り出してくれと、伯母さんの頼みだ。さっそく土竃の下の床板を剥がし、ジメジメする土を、三日がかりで一万五千両も隠せるほど掘りましたよ」 「ところで、小判は?」 「小判なんざ、片《かけ》らも出やしません。出て来たのは、古釘と五徳のこわれと、鉄漿《かね》の壷だけ、これでも金には違いありませんが、——とんだくたびれ儲けで」 「伯母さんはどうした」 「まだ諦めきれないようですよ。こんどは大膳坊を呼んで来て、ひと揉み祈《いの》らせてみるという張り切りで、いやもう、もうけたのは肉刺《まめ》が三つ。こいつは近頃の大笑いじゃありませんか」     三  八五郎は、またコミ上げるように笑うのです。八五郎がこんな呑気なことをしているうちに、大膳坊覚方の活躍は見事でした。そのうちでも大口は、八五郎のその後の報告によれば、——もっともいざ掘り出す前に、大膳坊ははっきり言うそうで、——お前のところには埋まっている宝はない、昔宝を埋めたという言い伝えはあっても、代々善根を積まず、悪業ばかり重なると、荒神様《こうじんさま》が惜しんでこれを隠される、諦めなさいと、はっきり断るそうで、それでも掘ったところで、なんにも出て来るわけはありません」 「ほんとうに金の出た家は、そんなにたくさんあるのか」  平次もツイ釣られて訊く気になりました。一ヵ所や二ヵ所ならともかく、五ヵ所十ヵ所と天下の通用金が、大地の底から出て来るようでは、これを簡単にペテンや詐欺《さぎ》で片づけられなかったのです。 「ありますよ、一番の大口は、塩町の小間物屋で、上州屋周太郎。その家の隅を剥がして、大地の下三尺も掘ると、石の蓋をした瓶の中から、ピカピカする慶長《けいちょう》小判が二十枚と出て来た」 「二十両は大きいな」  その頃の相場から言えば、二十両はまったくひと身上《しんしょう》でした。 「おかげで、つぶれかけていた上州屋が、いっぺんに身上を起こしましたよ」 「大膳坊が前に隠して置いたのではあるまいな」 「それは大丈夫で、床下三尺のところへ、外から忍び込んで隠せるはずはありません。それに床下は埃《ほこり》で煉り固めたようになっているし、新しく掘った跡なんか一つもありません」 「で?」  平次もツイその先も促しました。 「二十両の三つに一つ、七両は大膳坊がもらって、即座に町役人方と相談をし、町方でその日に困っている人に、綺麗にばら撒《ま》いてしまいました。一両だって大膳坊の身へはつけません、——私は二分の祈祷料《きとうりょう》を頂くから、それで結構——と言った、サバサバした坊主ですよ」 「ほかに?」 「広尾の百姓喜左衛門は、土地の旧家で、金《きん》の牛を祀《まつ》っていると言われたが、先代の頃からそれが見えなくなって。ぜひ捜し出してくれと頼まれ、気の進まない様子で行ったが、これはいくら祈っても出なかった。代々の因業《いんごう》で、人から怨まれているから、黄金の牛は石の牛になったんだそうで、土蔵の床下から、ひと握りの石ころが出て来ましたよ」 「?」 「内藤新宿の喜之字屋というお茶屋からも、ぜひにと頼まれて行ったが、これもなんにも出なかった。お酌《しゃく》に雇い入れた若い娘は、人買いの手から入れた可哀想なのが多く、人は知らなくても、天道様は見通しで」 「それっきりか」 「まだ、金を掘り当てたのは、三つか四つじゃありません。一番変わったのは、青山の御武家、百石取りの御家人で丹波小三郎様。物はためしで、大膳坊に祈らせてみると、翌る日井戸の中から小判が八枚出て来た。毎年井戸替えをしながら、こんなものが沈んでいることに気が付かなかったんですね。井戸の底の、砂の中に潜ったのを出すのは、大膳坊の法力だということで」 「フーム、面白いな。金が出たばかりで、誰も盗られたわけじゃないから、叱りも縛りもなるまい。だが、腑《ふ》に落ちないことばかりだ。しばらく眼を離さずに、様子を見ていてくれ」 「ヘエ」  八五郎は何が何やらわからぬままに引き受けました。これが大変な事件に発展しようとは、思いもよらなかったのです。 「御免下さい」  そんな話の最中に、障子一重の入口に物々しく訪れる声がしました。 「ハイ、ハイ」  お勝手から廻って、取り次いだ女房のお静は、平次の後ろの唐紙をあけて、 「あの、四谷伝馬町二丁目の、越前屋谷右衛門さんとおっしゃる方が、内証で御話を申し上げたいことがあるとか——で」  と囁くのです。 「よしよし、ここへお通し申すんだ。八五郎はちょいとお勝手へ姿を隠すがいい、——唐紙一重だから内証話も筒抜けだ。越前屋さんとやらの気が済めばいいわけだから」  平次は顎《あご》をしゃくると、八五郎は煙草入れをさらって姿を隠し、入れ違いに、立派な中年者が通されました。路地の外には、供の者らしいのが、それとはなしに見張っている様子です。  丁寧すぎるほど丁寧な挨拶、天気のこと、世並のこと、疝癪《せんしゃく》で歩くのに骨が折れ、思わず手間取った話しなどひとわたりあって、さて、 「実は折り入ってのお願いがあって参りましたが——」  ときり出すのです。物に間違いのない商人|気質《かたぎ》で、どんな忙しい時でも、これだけのプロローグがなければ、用事をきり出せなかったのでしょう。  見たところ、四十近い好い男、小紋の羽織、紬《つむぎ》らしい袷《あわせ》、煙草は呑まず、渋茶にも手を触れず、いかにも強《したた》かな感じのする中年者です。 「どんなことでしょう、このとおりほかに聴く者もございません。打ち明けてお話しをなすって——」 「ヘエ、へエ、実はその、親分さんもお聴きでしょうが、近頃の山の手に評判の大膳坊覚方とおっしゃる修験者」 「あの、埋めた金を捜し当てるという?」 「あの方が、私の家——伝馬町二丁目の越前屋にも、たいそうな宝が埋めたままにしてあると申すのだそうで、——私の家は、ご存じかも知れませんが、江戸両替屋の山の手の組頭《くみがしら》になっております。東照宮様御入国以来の家柄で、少しの貯《たくわ》えもございますが、三代前の主人が、公儀の冥加《みょうが》金の、際限もない御申し付けを惧《おそ》れ、一万両にも上る小判を、どこかに隠したに違いないという、不思議な噂が世上に伝わっております。そんな馬鹿なはずがないと、一生懸命に申し開きをしたところで、面白ずくの世上の噂は消えるわけはなく、ほとほと困っておりますと、大膳坊覚方さんが現れたのでございます」 「?」  越前屋谷右衛門の話は、丁寧ですが、要領よく運ぶのです。 「一万両などと申す大金は、狭い屋敷のなかに隠してあるはずもございません。もしまたそれが本当にあって、大膳坊の法力で出て来るものなら、大膳坊の申し入れどおり、一万両のうち、三つ一つは、どこかに寄付をするなり、神仏に納めるなり、お困りの人達に差し上げても、一向に構いませんが、——祈ったり掘ったり、さんざんの騒ぎをして、もしなんにもなかったら、この谷右衛門、江戸中の笑い者になります。どうしたものでしょう、親分さん。私は思案に余って、お知恵を拝借にまいったのでございます」 「?」 「もしまた、大膳坊と申す人が、お上で目をつけている、良くない方であったりしては、家の中を覗かせたくもございません。いかがなものです」  越前屋谷右衛門の言葉は、用心深かすぎるようですが、手堅い商売をしている大町人としては、まことにもっともなことでもあったのです。  平次はしかし、これになんとも答えることは出来なかったのです。法力で金を捜すという話は充分に疑わしいことですが、いちおうは注意しましたが、すでに五軒も十軒も成功をした例があり、大膳坊が掘り出した金を私《わたくし》したという話も聴かないのですから、正面から反対する理由は一つもなかったのです。     四  平次はこの埋蔵金事件を、全部八五郎に任せてみようという気になりました。別に盗まれた金もなく、怪我をした者も、殺された者もない事件に、ノコノコ顔を出すのは、大人気ないようでもありますが、事件の奥にはなんとなく異様な匂いがあり、満ざら放っても置けないような気がしたのです。  それに、これは一番大事なことでしたが、平次はこの辺で一番、八五郎にすばらしい手柄《てがら》を立てさせたかったのです。今までも、ずいぶんいろいろの場合に、八五郎を表面に立てて見ましたが、ツイその見当違いを見かねて、平次が顔を出してしまい、結局は平次の手柄になって、いつまで経っても八五郎は下積みのまま、主役にはなれそうもありません。  もっとも八五郎も立派に十手|捕縄《とりなわ》を預かって、一本立ちの御用聞にはなっているはずですが、八丁堀の旦那衆も、平次という控えがあるからの八五郎で、八五郎一人には、むずかしい事件を任せてはくれないのです。  幸いと言っては変ですが、まだ表面には、なんの犯罪事実も現れない事件——行先は混沌《こんとん》として、容易に見当もつかないこの事件を、八五郎の手に任せて、しばらく平次は静観してみようという気になったのも無理のないことでした。  平次の常識と長い間の経験から見ると、地下埋蔵金というものは、実際あるかも知れませんが、祈祷《きとう》や禁呪《まじない》でそれが発見されるなどということは、考えられないことです。 「気をつけるがいい、大膳坊はたぶん——いや間違いもなく山師坊主だろう。どんな手品で、何をやらかすか、眼を大きくして見張っていろ」  と、注意を与えてやったのも、当然のことでした。 「でも、金はあちこちから出たが、大膳坊は一両だって誤魔化《ごまか》しちゃいませんよ」 「種のない手品は使われないよ、気をつけることだ」 「ヘエ」  八五郎は不承不承に出て行きました。  それから四五日。 「とうとう掘り始めましたよ」  八五郎の第三回目の金掘り事件の報告は来ました。 「伝馬町の越前屋は、とうとうその気になったのか」  平次もこの報告を待ち構えていた様子です。 「ずいぶん渋っていましたが、このあいだ店の床下から、二十両も掘り出してもらった、塩町の上州屋周太郎が大乗り気で、予《かね》て知り合いの越前屋を口説き落したんで」 「フーム、上州屋と越前屋は昵懇《じっこん》でもあるのか」 「似寄りの年輩で、店だって遠くはありません。越前屋は美男で金持だが、上州屋は貧乏で不景気で、もっとも、十年くらい前までは上州屋も良い暮しだったそうですよ。米相場でひどい損をして、近頃は店も開けたり閉めたり、旅へ出たり江戸へ帰ったり、大膳坊に二十両の金を掘り出してもらわなきゃ、この暮れには夜逃げでもしなきゃならなかったと本人が言うんだから嘘じゃないでしょう」 「大膳坊はどこへ泊まっているのだ」 「相州小田原に住んでいるが、今は江戸に来て、上州屋の離屋《はなれ》に住んでいます」 「上州屋は配偶《つれあい》はないのか、——それから、大膳坊の身持はどうだ」 「二人とも四十近い独り者で、もっとも大膳坊のほうは蝠女《ふくじょ》とか言う蝙蝠《こうもり》が化けたような女の巫女《みこ》をつれて歩いています。ちょいとした年増で」 「相変らず、お前は女の鑑定《めきき》は早い」 「もっとも、越前屋の御新造に比べると、月とすっぽんで。これはたいした女ですよ」 「フーム」 「お菊さんといって、後添えですがね。まだ三十そこそこ、たまらねえ年増で」 「その、女の噂をするとき、舌舐《したな》めずりをするのだけは止せよ。大江山の酒呑童子《しゅてんどうじ》みたいで気味がよくねえ」 「ヘエ」 「不足らしい顔をするな、——ところで?」 「三日前に越前屋の一の倉に壇《だん》を拵《こさ》えて、大膳坊と蝠女《ふくじょ》の二人、そこに籠ったきりの祈祷が始まりましたよ。その一の倉というのは、雑用倉で、あまり大したものは入っちゃいません。その隣は両替組頭の越前屋が、大事な質の物と金箱を入れている倉だ。大膳坊は、金倉の方は、それっきりのものだが、祖先の埋めた一万両の宝は、雑用倉の床下にあるに違いないというので」 「フーン、変わってるな」 「祈祷は、三七、二十一日くらいはかかるそうですよ。何しろ大金だから、三日や五日では掘り出せない」 「……」 「大膳坊と蝠女《ふくじょ》は鳴物入りで祈りつづけていまさア、倉の中へは、誰も入れてくれず、竹矢来《たけやらい》を結って、側へも寄り付けやしません。ときどき大膳坊と蝠女が、息を入れに出たり、手を洗いに出たり」 「上州屋の周太郎はどうした?」 「ときどき覗きに来ますよ、——大抵は夜で、もっとも、この男も倉の中へは入れません」 「三度の食い物はどうする?」 「倉の前へ供えて声をかけると、蝠女が出て来て、運び込みます。修験者《しゅげんじゃ》は腹が減らないのか、あまり食わないようですね」 「フーム」 「もっとも、雑用倉で井戸も近く、手軽な流しも付いているから、倉の中でも食物の支度はできないこともありません」  八五郎の報告はこんなことでした。     五  その次の八五郎の報告は、七日ほど経っておりました。月はもう明るくなって、江戸の秋も次第に薄ら寒くなります。 「妙なことばかりですよ、親分」  八五郎のせりふは、相変わらず突《と》っ拍子《ぴょうし》もなく弾みきっております。 「何が妙なんだ、大膳坊が尻尾《しっぽ》でも出したのか」 「そんなものを出しゃ、生捕って香具師《やし》に売るが、どうも、狐や狸の化けたのではなくて、やっぱり人間の化けたのだから気になるじゃありませんか」 「人間が人間に化ける? 面白いな」 「だって、どう見たってあの糞坊主《くそぼうず》は、顔や姿を拵えていますよ」 「どんな具合に」 「眼尻に紅を差して、顔一面に煤《すす》と砥《と》の粉《こ》を塗って、含み綿をして頬をふくらませているに違いありません」 「フーム」 「それだけならともかく、あの総髪は鉢巻をしているから誤魔化されたが、間違いなく鬘《かつら》ですよ。それに、顔の半分の不精髭《ぶしょうひげ》だって、よく見ると、無二膏《むにこう》をなすって、その上から火口《ひぐち》を付けている様子で」 「どうしてそれがわかった」 「滅多に傍らへ寄せないが、鼻をかんだ紙へ黒いものがべっとり、真物《ほんもの》の髭《ひげ》なら、鼻をかむ度毎に落ちるはずもありません。その上、あの声だって、猫撫で声の裏声で、よっぽど変ですよ」 「フーム、そんなことはあるかも知れないな。誰がそんな様子をしているか、正体の見当はつかないのか」 「たしかに、どこかで見たことのある顔ですよ。この間から考えているが、どうしても思い出せねえ、癪《しゃく》にさわるじゃありませんか」  八五郎は口惜しがるのです。毎日顔を合わせる男、それが明かに仮装《かそう》の人間とわかったとき、八五郎の職業意識がうずくのも無理のないことでした。 「精いっぱい気をつけることだ、ほかに変わったことはないのか」 「大膳坊をつれ込んだ、上州屋の周太郎、あれも変な男ですね」 「何が変なんだ」 「何遍も身代限りをしそうになって、半分は旅から旅に暮している様子ですが、訊いて見ると、可哀想なところもあるんで」 「可哀想?」 「そうじゃありませんか。今から十二年前、今では越前屋の内儀になっている、お菊さんを越前屋谷右衛門と張り合って、山の手中の騒ぎだったそうですよ」 「そいつは初耳だ」 「上州屋周太郎も若い時は好い男だったそうで、そのうえ金もちょいとは持っていた。お菊さんは貧乏人の娘で、親たちもどっちにしようかと迷ったらしいが、男っ振りは大した違いはなくても、金の方は三倍も五倍も持っていた越前屋に札が落ちた、——よくある奴ですね」 「で、上州屋周太郎は、今でも越前屋を怨んでいるのか」 「心の中ではなんと思ってるか、覗いたってわかりゃしませんが」 「当り前だ、臍《へそ》の穴を覗いたって、腹の中まではわかりゃしない」 「十二年も経ったことだから、今では平気で付き合っていますよ。なんと言っても越前屋は、あの土地では大した羽振りだ、あれに楯《たて》を突いちゃ、四谷に住んでいられません」 「で?」 「内儀——といっても、あの綺麗さで、娘のように若い、そのお菊さんの顔を見る、上州屋の眼というものはありませんよ。怨《うら》めしそうな、悲しそうな、口惜しそうな、そのくせ人を小馬鹿にしたような」 「そんなところは感心に目が届くな」 「あの内儀のお菊さん、いちど親分に見せたいな、三十と言っても、好い女は不思議に年を取りません。脂《あぶら》が乗ってるけれど、細っそりして」 「もうたくさん、お前が見ると、たいがいの女は綺麗に見える。ところで——まだ話があるだろう?」 「上州屋周太郎、口惜し紛《まぎ》れに米相場に手を出して、すってんてんになったのはそれから二三年も後、今から十年ほど前でさ。四谷を離れるのが口惜しいと言っていたそうで、家はそのままに、旅へ出ちゃ、変な稼ぎをしていたようです。まさか、泥棒はしなかったでしょうが、男前が好いから、習い覚えた遊芸を資本《もとで》に、田舎芝居の一座に入ったり、香具師《やし》の仲間に入ったり、やくざの仲間に入ったり、左右の腕に上り竜と下り竜の彫物《ほりもの》があるそうですよ。こいつは関東でも名題の、なんとか組の合印なんだそうで」 「大変な男だな」 「こんな男の後押しじゃ、大膳坊、倉の中で何をやり出すか、わかりゃしませんね」 「ところで、もう一つ、蝠女《ふくじょ》とかいう巫女《みこ》は何をしているんだ」 「変な女だと思ったが、だんだん見ていると、こいつも悪くない女ですよ。前帯に紫頭巾《むらさきずきん》で、へんてこな風をしていますが、ありゃ大膳坊の女房かも知れませんね。何しろ倉の中に籠ったきり、もう、十日にもなるのに、滅多に顔も見せません」 「何しろ、変なことばかりだ。いずれ、俺も行ってみるが、御用が多くて今は手が抜けねえ、しばらく念入りに見張っていてくれ」 「ヘエ」  八五郎は不足らしい顔をしますが、まだなんの変化もないので、平次を引っ張り出したところで、縛る相手もない有様です。 「確《しっか》りするんだよ、お前というものの、良い手柄になるかも知れない」  そう言って激励するのがせいぜいです。     六 「親分、大変ッ」  八五郎が刷毛《はけ》先で梶《かじ》を取って、明神下の家に乗り込んで来たのは、月が円くなった頃、ある夜の戌刻《いつつ》(八時)過ぎでした。 「とうとう来やがった。お前の大変が来そうな時分だと思ったよ」  平次はニヤリニヤリと一向に驚く風もありません。 「忙しいなんて言っちゃいられませんよ。すぐ出かけて行って、あの野郎を縛って下さい」  八五郎は、どうやら、興奮しきっている様子です。 「まア、落着いて話せ、どこへ行って、誰を縛るんだ」 「上州屋の周太郎ですよ。あの野郎が」 「上州屋の周太郎がどうしたんだ」 「混がらかっちゃいけません。順序を立てて聴いて下さい」 「混がらかるのはお前の方じゃないか、何がどうしたんだ」 「あっしが、先刻《さっき》、——まだ薄明るい時でした。大膳坊の野郎何をしているのかと思って、越前屋の一の倉の後ろへ廻って、そっと覗いて見ると——」 「あまり結構な図じゃないな。まアいい、そこに何があったんだ」 「大膳坊が井戸端で、大肌脱《おおはだぬ》ぎになって、身体を拭いていたと思って下さい」 「思うよ」 「ぬれ手拭を使って、背中を拭いているところでしたが、何気なく見ると、左右の腕に彫物があるじゃありませんか。——二の腕から肩へかけて、左は上り竜、右は下り竜だ」 「フム」 「はッと思ったが、あの蝠女《ふくじょ》というのが見張っていて、しばらく動けやしません。我慢をして、ジッと物蔭から見ていると、大膳坊は引っ込んで、こんどは蝠女の行水《ぎょうずい》が始まった」 「……」 「巫女《みこ》でも市子《いちこ》でも、三十そこそこの餅肌、悪くねえ女だ。その行水を、始めから終りまで、ジッと眺めているのは、楽じゃありませんね」 「馬鹿野郎、なんだって、逃げ出さないんだ」 「だって、動き出せば、相手も気がつくでしょう。さぞ、若い男のあっしに行水姿を見られて、極りが悪かろうと」 「馬鹿だなア、お前の馬鹿は底が知れない」 「ばアと飛び出しゃ、どんなにびっくりするか、それを考えると、あっしは眼をつぶってじっとしているほかはありません、——そのまた行水の長いこと」 「……」 「ようやく済んだから、飛び出そうとしましたよ」 「どこへ」 「大膳坊は上州屋周太郎に違いありません。一人二た役、塩町に飛んで行って、引き抜いているところを、この眼で見ようと思ったんで」 「上州屋周太郎と大膳坊と、顔を合わせるようなことはなかったのか」 「あとで思い当たると、不思議にこの二人は顔を合わさなかったようで。大膳坊は朝から夕方まで蔵の中で祈《いの》っているし、上州屋周太郎が、越前屋へ来るのは、いつでも夜で、そのときは蔵が閉って、大膳坊は寝てしまった様子で、物音もしなかったのです」 「フーム」 「それに、大膳坊は変な拵えをしていましたが、思い合せると、上州屋周太郎の顔立ちで、作り声をしていても、聞いたことのある地声が出ました」 「それから、どうした」 「飛び出そうとすると、蝠女《ふくじょ》につかまったんです、——なんだって私の行水を覗くんです? これでも若い女じゃありませんか——と胸倉をつかまれて、どうすることも出来ない」 「間抜けだなア」 「三十女は強い、帯|ひろ《ヽヽ》どけて、変な風をしている癖《くせ》に、なんとしても放してくれない、——おしまいには、私はまだ娘なんだから、このままでは済ませない、畜生奴、どうしてくれよう——と、こう言った具合」  八五郎は仕方話《しかたばなし》になるのでした。 「見たかったな、紫ずきんの巫女と取つ組み合いの場を」 「冗談じゃありませんよ、あっしもあれほど執《しつ》こく女に絡《から》まれたことはありませんよ」  八五郎の話の馬鹿馬鹿しさに、平次の女房のお静は、たまり兼ねてお勝手に逃げ込んでしまいました。たぶん、腹を抱えて笑っていることでしょう。 「それっきりか」 「話はこれから大変なんで、ようやく蝠女の手を振りきって、塩町へ飛びましたよ。上州屋周太郎がどんな顔をしているか、それを見たかったのです」 「?」 「表は締っていて、叩いても押しても開きゃしません。裏へ廻って飛び込むと、主人の周太郎、男のくせに、鏡と首っ引で化粧《けしょう》をしているじゃありませんか」 「化粧?」 「あっしもあんなに驚いたことはありませんが、周太郎はなお驚いた様子で、顎や頬から、火口《ほぐち》を剥ぐのに夢中でしたよ」 「フム」 「どう思います、親分。大膳坊は間違いもなく上州屋周太郎でしょ。一人二た役で、なんか悪いことを企《たくら》んでるに違いありません。その場で縛ってやろうと思いましたが、待てよ、別になんにも悪いことをしたわけでもなし、いきなり縛るわけにも行きません。照れ隠しになんか言って、飛び出して来ましたが、どうしたものでしょう、親分」  なるほどこれは、八五郎一人の手におえそうもありません。 「そいつは容易ならぬことだ。それほど用心ぶかい大膳坊が、薄明るい井戸端で、彫物《ほりもの》を見せて肌脱《はだぬ》ぎになったり、蝠女《ふくじょ》とやらがお前に執《しつ》こく絡《から》み付いたり、上州屋の周太郎が顔の火口を剥がしているのを見せたり、みんなする事がわざとらしいじゃないか」 「そうでしょうか?」  八五郎にはまだ腑《ふ》に落ちないものがあります。 「悪者どもの仕事は済んだのだよ。そんなところをお前に見せるのは、勝負を仕掛けたようなものだ。行ってみよう、八」 「どこへ?」 「知れたこと、伝馬町の越前屋だ、——お前一人に任せて置いたのが手ぬかりだったかも知れぬ」  平次は手早く支度をしながら、こんなことを言うのです。     七  道々、平次は八五郎に訊《たず》ねました。 「お前が越前屋の倉の裏を覗いたのは、誰かにけしかけられたのか。お前の思いつきじゃなさそうだが」 「そのとおりで、——前の晩、周太郎が越前屋へ来た時、あっしを角口に呼び出して、そう言いましたよ、——大膳坊さんは、明日あたり、身体を洗いたいと言っていたが、あの人は、俗人に身体を見られるのを、ひどく嫌がるから、親分はそのつもりで、人を近くへやらないようにして下さい——とね」 「覗いて見てくれと言わぬばかりだ。ところで、蝠女《ふくじょ》と周太郎は口をきく事があるのか」 「大膳坊は周太郎と顔を合せない代り、蝠女がみんな取次ぎますよ、——あの蝠女というのが大変な女で、周太郎と出来ていますね」 「なんだと?」 「女の素振りの鑑定にかけては、親分はだらしがねえが、あっしのほうは本阿弥《ほんあみ》で、ちょいと物を渡すんでも、思い入れたくさんに、手なんか握りますよ」 「畜生ッ、それでわかった。急げ、八。大詰の幕は開いたかも知れない」  二人は本当に宙《ちゅう》を飛びました。  夜中の街を、神田から四谷伝馬町へ、二人が越前屋へ着いた時は、平次が心配したように、事件はもう、残酷《ざんこく》で、念入りで、憎んでも憎み足りない、そのくせ手のつけようのない破局に持ち込まれていたのです。  越前屋の主人谷右衛門は、平次が来たと訊いて跣足《はだし》で飛び出しました。 「銭形の親分さん、これを見て下さい」  手を取るように導かれると、奥の一と間、主人の居間の隣、綺麗に片づいた女郎部屋に、平常着《ふだんぎ》のまま、内儀のお菊は、後ろから刺されて心の臓を一と突きに、標本台の上の美しい蝶《ちょう》のように死んでおり、土地の御用聞と町内の外科が、調べたり、手当てをしたり、いろいろ試みておりますが、もはや手の尽くしようもありません。 「こいつはいつごろ見つけました」 「ツイ先刻《さっき》です、私は仲間の相談事があって夕方から外に出ておりました。先刻帰って、いつも寝ずに待っている、家内の部屋を覗くとこの有様で」 「まだあまり時は経っていない」  血も固まらず、体温も残っており、この兇行《きょうこう》は半刻《はんとき》(一時間)とも経っていない様子です。 「親分、——この下手人は、私にはよく判っております」 「?」 「十二年前、この家内を、私と張り合った男、あの男に違いありません、近頃は昔のことを忘れてしまったように、馴々しく出入りしておりましたが——」  谷右衛門は口惜《くや》しがるのです。言うまでもなく、若かりし頃のお菊を争った、上州屋の周太郎を指すものでしょう。 「それより、大膳坊に逢わせて下さい。一の倉で祈祷《きとう》をしていると聴きました」 「さア、それは」  主人谷右衛門には、まだ躊躇《ちゅうちょ》があります。 「そんなことを言っている時ではない、早く早く」  平次に促されて谷右衛門はようやく案内しました。八五郎も、土地の御用聞も、それに従ったことはいうまでもありません。  土蔵は開けられました。祭壇はそのままですが、中はまったくの空っぽ、大膳坊の姿はいうまでもなく、巫女《みこ》の蝠女《ふくじょ》の姿もそこには見えなかったのです。 「祭壇の下に穴があるのだろう、灯を」  平次が言うと、持って来ただけの灯はそこに集中されました。床板は剥がれて、そこから、どうして掘ったか、深い深い穴が続くのです。  土蔵の下四五尺のところから,穴は横に掘られて、三間五間とつづき、第二の倉、あの越前屋の富をしまい込んでいる、金蔵の下へと掘られているではありませんか。 「あ、これは?」  しばらく行くと、穴の天井が崩れ、土砂に埋まって一人の男の死体があります。 「おや、大膳坊だ」  その死骸は、顔、口、頭は石で砕かれておりますが、左右の腕に上り竜下り竜の彫物《ほりもの》のある、紛《まぎ》れもなく大膳坊覚方の無残な姿だったのです。 「もう冷たい」  死骸に触ってみると、もう冷えきっておりました。少なくとも内儀のお菊よりは、一刻も前に死んだものでなければなりません。  大膳坊の死骸の先に、なおも穴が続いております。平次と谷右衛門と八五郎が、相戒《あいいまし》めて進むと、その先は金蔵の床下になり、そこに開いた穴から登ると、 「あッ」  金蔵の中に貯えた、越前谷の全部の富、五つの千両箱のうち、三つまでが紛失《ふんしつ》していることがわかったのです。     * 「これは一体どうしたことでしょう。上州屋の周太郎が大膳坊に化けて越前屋の蔵の中に入り込み、蝠女《ふくじょ》に手伝わせて、十五六日もかかって穴を掘り、金蔵へ入って三千両の金を盗んだのでしょうね」  帰り途、八五郎は言うのです。 「そのとおりだよ。お前もなかなか勘が良い」 「ところで、金は盗んだが、大膳坊は穴の天井が落ちて死んでしまった。蝠女は逃げ出そうと思ったが、周太郎の大膳坊と出来ていたので、周太郎が越前屋の内儀のお菊に、まだ未練があるのを口惜しがり、母屋《おもや》に忍び込んで、内儀を殺して逃げた——この鑑定は間違いはないでしょうね」  八五郎はシタリ顔でした。 「大違いさ」  平次の言葉は予想外でした。 「どこが違うんです」 「あんなに大勢顔を知ってる者のいる中で、いかに田舎芝居の一座に入ったことがあっても、周太郎は大膳坊には化けられないよ」 「ヘエ、するとあの上り竜下り竜の彫物は?」 「同じ悪者仲間の符牒《ふちょう》で、周太郎にも大膳坊にもあの彫物はあったのさ」 「ヘエ?」 「周太郎は、少し甘口な大膳坊をだまし込み、人に顔を見られちゃ悪いとか何とか、姿を変えさせて、ちょっと自分に似せ、三人力を合わせて三千両持ち出したが、ばれそうになったので、大膳坊を殺して、わざと穴を崩したに違いない。大膳坊は刃物で殺されたのでなく、石で打たれて殺されたから、うっかり見ると騙されるよ」 「?」 「行きがけの駄賃に、昔の恋の怨みの内儀を殺した。あれも大膳坊の姿では、内儀に騒がれて出来ない仕事だ。そして蝠女《ふくじょ》と手を取って逃げ出したが、どっこい」 「どこへ逃げたでしょう、親分」 「手配はちゃんとしてあるよ。周太郎が品川にもう一つ足場を拵えていることを、二三人の下っ引を使って、前から調べてある。今頃は蝠女と三千両を右左に、ニヤニヤしているに違いない。夜は明けかけたが、品川まで行ってみるか」 「行きますとも親分、どこまででも——」  八五郎は自分の不面目さも忘れて、八五郎らしく張りきるのです。  もう吐《は》く息が白く見えます。品川の海が暁《あ》けはじめて、駅馬の鈴の音。   (完)